聖書を開こう 2021年12月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の民に残された安息(ヘブライ4:6-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書に書かれていることの大半は、今を生きる私たちにとって過去に起こった出来事です。ややもすると、そこに約束されている将来の希望も、過去の人たちが信じた希望にすぎないと読まれてしまいがちです。

 しかし、聖書をそのように読むとしたら、聖書は私たちとは全く関係のない世界の話で終わってしまいます。少なくともこの番組を聴いてくださっている方にとっては、聖書は単なる過去の物語ではないはずです。

 パウロはその手紙の中で「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)と述べていますが、それは過去の時点での過ぎ去った「今」ではなく、私たちに語りかけられた「今」です。

 これからお読みする聖書の個所にも、「今日」という言葉がキーワードのように取り上げられています。それは、その言葉を最初に耳にした旧約時代の人々にとっての「今日」であると同時に、それを引用したこの手紙を最初に受け取った人たちにとっての「今日」でもあります。さらに言えば、それから何百年も経って今この手紙を学んでいる私たちにとっても、変わることのない「今日」です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章6節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 「ヘブライ人への手紙」は、3章7節以下からずっと詩編95編の言葉を引用しながら、読者たちを信仰の道にとどまって歩み続けるようにと励ましてきました。

 さかのぼって振り返ると、3章6節でこの手紙の著者はこう述べています。

 「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」

 神の家であり続けるためには、確信と希望を持ちづづけることが大切です。そのために、今日という日に語られる神の言葉に真摯に耳を傾ける必要をこの手紙の読者たちに訴えてきました。

 かつて約束の地を目指して荒れ野を旅したイスラエルの人々は、心をかたくなにしたために約束の地に入ることができませんでした。ただ、ヨシュアとカレブと、荒れ野をさまよう40年の間に生まれた子孫たちは例外でした。

 確かにヨシュアたちが入った約束の地は、安息の地ではありましたが、究極的な意味での安息を与えられたわけではありませんでした。その後のイスラエルの歴史を垣間見れば、神の約束に心を閉ざし、自分の身に災いを招く歴史の連続です。しかし、そのことは、安息を約束した神の言葉が、神の側から反故にされたということではありません。真の安息の希望は、今日に至るまで開かれています。

 再び詩編95編の言葉に着目して、こう述べます。

 「再び、神はある日を『今日』と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない』とダビデを通して語られたのです。」

 引用した詩編の言葉は、この手紙の著者にとってはダビデの時代にさかのぼる過去の言葉です。しかし、少しも疑うことなく、ここで語られる「今日」という日を、自分たちの時代にもあてはめて理解しています。

 繰り返しになりますが、この手紙の著者は、この手紙を読む人たちが、信仰の歩みを貫き通し、神の家、神の家族として、天の安息にあずかることを願っています。そのために「今日」という日の大切さを指摘しているのです。

 しかし、「今日」という日の存在が、今なお過去のものではないと励ます一方で、心をかたくなにしてしまったイスラエルの歴史をも思い起こさせています。

 この手紙の著者が読者に望んでいることは、「今日」という日にみ言葉を心開いて真摯に受け止めること、逆に望んでいないことは、心を閉ざして、神の言葉に耳を貸さないことです。その結果がどんなことになるかは、聖書に記されたイスラエルの歴史が示しているとおりです。

 ここで、この手紙の著者は、耳を傾けるべき神の言葉について、さらに筆を進めます。神の言葉について三つの点を取り上げています。第一にそれは、生きた御言葉であるという点です。「生きている」というのは「死んでいる」というのと対をなす言葉です。神の言葉がただ単に過去のものであり、何の効力を持たないものであるなら、それは死んだ言葉にすぎません。誰をも生かすことはできません。しかし、神の言葉はそうではありません。ペトロがその手紙の中で述べているように、「神の変わることのない生きた言葉によって」信仰者たちを新たに生まれさせる命を持った言葉です(1ペトロ1:23)。

 第二に、神の言葉は「力を発揮する」ものです。ここで使われている「力を発揮する」と訳されている言葉は「エネルギー」と関係のある言葉です。「力がある」「活動的である」という意味の言葉です。イザヤは神が語る言葉についてこう述べています。

 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)

 第三に神の言葉は、「どんな両刃の剣よりも鋭い」ものです。あらゆるものを切り分けることができる鋭い剣のように、人の思いや考えを切り出すことができる鋭さをもっています。人間には人の本心など見抜くことはできません。自分自身でさえ、自分が何を思っているのか、わからなくなることもあります。しかし、神の言葉に触れるとき、あらゆる思いが切り分けられて明らかにされていきます。

 神の言葉がそういうものであるからこそ、今日という日に心開いて耳を傾ける必要があるのです。そのときにこそ、まことの安息へと導かれていくのです。

Copyright (C) 2021 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.