メッセージ: 愛するガイオへ(3ヨハネ1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうからヨハネの第三の手紙の学びに入ります。この手紙もまたとても短い手紙です。何か神学的な議論を展開するというよりは、手短に用件だけをしたためた手紙です。葉書1枚には収まり切れない分量ですが、当時のパピルス用紙1枚に何とか収まりきる分量ではないかと思います。
前回まで学んできたヨハネの第二も短い手紙でした。その手紙と比べて、節の数からいえば2節長いのですが、使われている単語の数からいうと、実は26単語も短い手紙です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙三 1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
この手紙はある長老からガイオと呼ばれる個人へ差し出された手紙です。差出人の長老については、第二の手紙を学んだ時にも触れましたが、伝統的には使徒ヨハネであるといわれています。ただ、この手紙の中にはそれを示す確かな証拠は何も見出されません。しかも差出人は自分の個人名を名乗らず、「長老」とだけ名乗っています。
もちろん、この手紙を受け取ったガイオは、その長老が誰であるかはわかっていたはずです。ただ、お互いに面識があったかどかはわかりません。4節の「自分の子供たち」、正確には「わたしの子供たち」という言葉の意味をどう解釈するかによっては、面識があったという可能性も否定できません。
受取人のガイオに関しては、どこの誰であるかを特定することはできません。あまりにもありふれた名前であるために、どこの町にもいそうな名前だからです。新約聖書の中だけでも、ここを含めて5回登場しますが、(使徒19:29、20:4、ローマ16:23、3ヨハネ1)、ここに登場するガイオと他のガイオとが同一人物である可能性はほとんどありません。
しかし、どこのだれかはわからないとしても、どんな人物であったのかは、この短い手紙を通して十分知りえると思います。
この手紙の差出人である長老は、ガイオのことを「愛するガイオ」と呼び、さらに「わたしは、あなたを真に愛しています」と書いています。手紙冒頭の「愛するガイオへ」という言い方が、「親愛なるガイオへ」というのと同じ形式的な定型文であったとしても、次に記される「わたしは、あなたを真に愛しています」という文は、決して形式的な挨拶とは思えません。
第二の手紙の中でも「真に愛する」という表現がでてきました。そのとき触れたように、この表現は「真理において」とか「真理に根差して」というニュアンスのことばです。もちろん、「真に」という翻訳が間違いではありません。そして、その慣用的な意味ではむしろ「真に」と訳すべきかもしれません。しかし、ヨハネにとっては「真理」という言葉は重要な言葉として、繰り返し登場しています。このことを考えると、ここでは「真に」という意味ではなく「真理に根ざして」という意味であるように思われます。
このあと、ガイオが真理に歩んでいることが繰り返し言及されますが、その真理に歩むガイオを、ヨハネは真理に根差して愛してると伝えているのではないでしょうか。
さて、この手紙には、神からの「恵みと平安」を祈る言葉がありません。そういう意味では珍しい手紙の書き方です。それに代えて、健康であるようにとの祈りが記されています。それも、「あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるように」という不思議な言い方です。
ガイオは霊的な面ではとても恵まれた状態にあるけれども、それ以外の面では恵まれていない、特に体の健康面で不自由があるということでしょうか。そうかもしれません。ただ、このあと出てきますように、ガイオは訪ねてくるクリスチャン仲間をもてなしたり、世話をしたりして評判のよい人でしたから、それなりの財産も体力もある人であったようにも思われます。
そのガイオについて、ヨハネは「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます」と記しています。
真理に歩んでいるとは、具体的にはどういうことでしょうか。ヨハネの第二の手紙の中では、「真理に歩む」ということと「互いに愛し合うこと」とは、しっかりと結びついたことがらでした。真理に歩むとは、具体的には互いに愛し合うことでした。
ガイオの場合、その愛の行動は、兄弟たち、とりわけ巡回伝道者たちのもてなしと世話とに現れていました。
「愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。」
ヨハネがこのガイオの評判を知ったのは、他ならぬガイオのもてなしを受けた兄弟たちの口コミでした。ガイオからのもてなしを受けた人々が、教会でその誠意あるもてなしぶりを証していたからです。その評判を耳にして、ヨハネは喜びを禁じえません。
ところで、ヨハネはガイオと面識があったのでしょうか。前にどこかで会ったことのあるガイオの評判を耳にして喜んでいるのでしょうか。
4節で「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」と記しています。
「自分の子供たちが」というのは、「わたしの子供たちが」という言い方です。文字通りにとれば、ガイオは長老ヨハネの子供ということになります。ただ、パウロ書簡やユダヤ教の文書には、自分が指導して弟子として育てた人を「わたしの子」と呼ぶ習慣がありました(1テモテ1:18、フィレモン10、ガラテヤ4:19)。ここでの意味もそうだとすると、ガイオは長老ヨハネの薫陶を受けた人ということになります。そうすると、ガイオとヨハネは面識ある者同士であったということになります。
しかし、長老であるヨハネが、面識のあるなしにかかわらず、自分の責任がある地域の信徒たちを「わたしの子供たち」と呼んだとしても、違和感はありません。そうすると、ヨハネはガイオと面識がなかったという可能性もあります。面識がない人だからこそ、ヨハネはガイオの評判を聞いてとても喜んでいるのかもしれませんし、こうして手紙を書こうという気持ちになったのかもしれません。
ヨハネはガイオに対して、「どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください」と勧めています。送り出す、という前提には、当然彼らを迎え入れるということがあります。
巡回伝道者たちは、家の教会をめぐって福音を語り聞かせたり、牧会的な配慮が必要な信徒たちを励ましたりしました。彼らの活動を支えるのは、ガイオのような信徒たちでした。そして、その両者が「真理のために共に働く者」であるということを覚えたいと思います。