聖書を開こう 2021年9月9日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  惑わす者への警告(2ヨハネ7-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 SNSが発達してきた現代では、キリストを名乗る様々な教えが氾濫しています。一昔前ならそういう教えに出会うことはめったになかったようなことでも、もはや国境も時間も超えて瞬時に広がっていきます。

 SNSで「クリスチャンです。友達としてつながってください」とリクエストを受ければ、たいていの人はそれを拒絶することはなく、受け入れてしまいます。その人が信じている教えが、根本的に間違っていることが後になってわかったときに、場合によっては手遅れになっていることもあります。

 というのも、わたしの友達リストに加えられたことで、他の人たちも安心してその人とつながってしまいます。そういうつながりが広がっていくことで、間違った教えの餌食になっていく人が出てきてしまうことです。

 「間違った教え」とか「正しい教え」という言葉は、上から目線で差別的な表現です。わたしはあまり使いたくはありません。また、人それぞれ自分が正しいと思うことを信じる信仰の自由を否定するつもりもありません。しかし、根本的に違うものをあたかも同じものであるかのように装うやり方には十分な注意を払う必要があることを思わされます。

 もちろん、わたしは教派主義を振りかざして、自分の教派以外のキリスト教は皆間違っているなどと偏狭な考えを持ってはいません。しかし、キリスト教とは何かという一線を超えているにもかかわらず、それでもなおキリスト教であることを主張する教えには断固として抵抗するつもりです。

 その一線とは、「ナザレのイエス」というお方をどう告白するかということに関わっています。神学的な用語を使えば、「キリスト論」がどのように論じられ受け止められているかということと深く関わっています。

 今、学んでいるヨハネの第二の手紙も、まさにキリスト論を巡る問題で、教会が立つか倒れるかの状況に直面しています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙二 7節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。

 前回の学びでは、この手紙を受け取った教会の信徒たちが真理のうちを歩んでいることを学びました。まさにそのことを知って長老であるヨハネはうれしく思い、彼らが最初から大切にしてきたキリストの教え、互いに愛し合うことを引き続き実践するようにと信徒たちにヨハネは勧めました。

 ヨハネがそのように勧めるのには、大きな理由がありました。それがきょう取り上げる個所に記されています。

 「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。」

 ヨハネが言う「人を惑わす者」とはどうい人を指しているのでしょうか。もともとまことの神を知らない人々の世界に広がっていったキリスト教ですから、いつも周りには人を惑わす要因が転がっていました。しかし、ヨハネがいう「人を惑わす者」とは、そういう異教的な世界から来る対立のことではありません。むしろ、キリスト教の内側から生まれてきた、今まで使徒たちが伝えてきた教えとは異なる教えです。そういう異なった教えを説く者たちが世に「出て来た」とヨハネは言います。

 ここで「出て来た」と訳されている言葉は、単に「出現する」という意味ではなく、本来の意味は「内側から外へ向かって出ていく」というニュアンスの言葉です。そのニュアンスからいうと、教会の中からこの世に出て行ったと考えることもできるかもしれません。

 ヨハネはその出てきた教えを端的にこう指摘します。

 「彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。」

 ここに「公に言い表わす」と訳されている言葉は、「信仰を公に告白する」という意味に使われますが、本来の意味は、「同じことを言う」というニュアンスの言葉です。ヨハネによれば、彼らは自分たちと同じことを言わないのです。その「同じこと」とは何でしょう。それは「イエス・キリストが肉となって来られた」という信仰の内容です。そうした共通の理解、信仰を同じように言い表さないのです。

 ちなみに「肉となって来られたことを」と訳されていますが、厳密には「肉となって来られていることを」と訳すべきかもしれません。ギリシア語の文法の話になってしまいますが、現在分詞をあえて使っているこの個所はこのように訳すべきだと思います。つまり「彼らは、肉となって来られているイエス・キリストを公に言い表そうとしません」と。

 肉となって来られたイエス・キリストについて、ヨハネは第一の手紙の4章2節では、こう表現しています。

 「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」

 ここでもヨハネは単なる過去形ではなく、現在完了形を使って表現しています。それは、過去のある時点で起きた状態が、現在にも続いていることを表現する言い方です。日本語にはない文法なので翻訳することは難しいのですが、あえて言えば、「イエス・キリストが肉となって来られ、そして今なお肉体を伴っておられる」ということです。

 つまり、ここで何が問題となっているかといえば、後に「グノーシス」と呼ばれる異端者たちが説いていた「仮現論」と同じような間違った教えが、世に出てきているということです。

 ヨハネはそのような考えを一致した信仰から離れていった者とみなしています。つまり、キリストの受肉は決して一時的な仮の姿ではなく、キリストは肉体をもって生まれ、肉体をもって十字架の死を遂げ、そして、肉体をもって復活し昇天されたと告白することこそが、正しい信仰だということです。

 もとをただせば、肉体を伴ったキリストを否定する考えの根底には、肉体を軽視する思想があります。肉体を軽視することは、この世で生きる意味を低く見積もる思想に繋がっていきます。それはこの世で現実に生きる信仰生活も、互いに愛し合って生きる生き方も、軽視されることにつながっていきます。そういう危険な芽がこの教えにあることを見抜いて、ヨハネは彼らのことを「惑わす者」「反キリスト」という厳しい言葉を使って非難しています。

 彼らのことをヨハネは「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者」と呼んでいます。、キリストの教えを超えて、優れたものになっているのでは決してありません。逸脱してキリスト教とは違うものに堕ちてしまっているのです。

 この危険は現代の教会にも通じます。教会は様々な課題や問題に直面します。それに伴って様々な議論が起こります。しかし、その結論が、私たちが信じてきたキリストとは異なるキリストの姿を描き始めるとき、私たちは最大限の注意を払わなければならないのです。

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