聖書を開こう 2021年6月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  屈辱的なハマン(エステル6:10-14)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 予想外の出来事というのは、人生には必ず起こります。それは自分にとって好機をもたらすこともありますが、反対に予想外の出来事のために苦しみを味わうこともあります。もっとも予想外といっても、本人の認識不足や楽観主義的な考えが原因ということもあるので、本当に予想外の出来事というのはめったに起こらないかもしれません。

 例えば、天気予報も確認しないで、傘も持たずに出かけたら雨に降られてしまった、とします。この場合、確かに本人にとっては予想外の雨です。しかし、天気予報さえしっかり見ていれば、ある程度避けることができた雨です。

 しかし、子供のころの自分が、今の自分を予想できたかといえば、これはまったくもう予想外の人生です。どこをどう遡って変えれば、思い通りの人生になっただろうか、などと考えても、意味がないほど、複雑なめぐりあわせが予想を超えたその人の人生を形作っています。

 今まで学んで来た『エステル記』には、そうした複雑な巡り合わせから生じる数多くの予想外の出来事に満ちていました。しかし、その予想外の展開はあくまでも人間にとっての予想外です。

 『エステル記』には「神」という言葉は一言も語られませんが、この『エステル記』には姿を現わさない神の働きが記されています。神には想定外の出来事はありません。すべてが神の御手の中で起こっている出来事です。

 人間にとっての予想外も、すべてが神の御手の中にあることを信仰によって受け止めるときに、苦難の中にも希望が見えて来ます。それは『エステル記』に限らず、聖書全体を通して一貫して語られていることのように思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 6章10節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 王はそこでハマンに言った。「それでは早速、わたしの着物と馬を取り、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイに、お前が今言ったとおりにしなさい。お前が今言ったことは何一つおろそかにしてはならない。」ハマンは王の服と馬を受け取り、その服をモルデカイに着せ、都の広場で彼を王の馬に乗せ、その前で、「王が栄誉を与えることを望む者には、このようなことがなされる」と、触れ回った。モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。彼は一部始終を妻ゼレシュと親しい友達とに話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」彼らがこう言っているところへ、王の宦官たちがやって来て、エステルの催す酒宴に出るよう、ハマンをせきたてた。

 前回の学びでは、眠れない王が過去の宮廷日誌に記された記事をたまたま読んだ話を学びました。そこには王に対す謀反が一人の人によって未然に防がれた事件が記されていました。その功績に対して何の報いも与えていなかったことを知った王は、早速この者に褒美を与えることを考えます。

 そこへたまたま別の用事でやってきたハマンが王の相談に乗ります。王が褒美を与えようとしていたのは、ハマンにっては憎らしい相手であるモルデカイに対してです。しかし、そうとは知らないハマンは、王は自分への褒美を相談しているのだと勝手に思い込み、最高の栄誉を与えることを提案しました。それが前回までのストーリーです。

 王はハマンの提案を受けて、その通りモルデカイに対して実行するようにと命じます。しかも、ハマン自身の手によってです。これはハマンにとって予想もしない出来事でした。ハマンが王のもとにやってきたのは、このモルデカイを柱に吊るして処刑することを提案するためでした。それが処刑どころか、人々の前で最高の栄誉を与える儀式を自分の手で実行しなければならなくなってしまったのです。皮肉なことに、それを提案したのはハマン自身です。

 自分が提案した通りに、王から受け取った服をモルデカイに着せ、広場で王の冠を頭にかぶせた馬に乗せて、「王が栄誉を与えることを望む者には、このようなことがなされる」と触れ回らなければなりません。ハマンにとってこれほどの屈辱はありません。こうなるとわかっていたら、ハマンは別の提案を王にしたことでしょう。

 「ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ」と聖書は記します。モルデカイが普通にまたもとの王宮の門に戻ったのとは対照的です。

 帰宅したハマンは早速、妻や友人たちに心のうっぷんをぶちまけます。ハマンは前の時のように、また彼らが何かよい提案をしてくれることを期待していたのかもしれません。モルデカイを高い柱に吊るすことを提案したのは、他ならない彼らだったからです。

 しかし、ハマンが耳にしたのは思いもかけない言葉でした。それは慰めの言葉でもなければ、新しい策略でもありません。

 「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」

 いったいこれはどういうことでしょう。ユダヤ人相手にはどう頑張っても勝ち目がないことを知っていたのなら、最初からそうハマンに忠告すべきではなかったでしょうか。モルデカイを柱に吊るせと焚きつけておきながら、いざ情勢が変わると手のひらを返したようなそっけなさです。

 おそらく、そう理解すべきではないでしょう。そもそも彼らがハマンにモルデカイの処刑を提案したのは、本気ではなかったと思われます。前にも指摘しましたが、モルデカイを吊るすための柱の高さは、常識では考えられない高さです。「ご冗談でしょう」と言って真に受けないのが大人の対応のはずでした。しかし、予想外にハマンはそれを真に受けてしまったのです。

 その計画が頓挫したことを知った妻や友人たちはある意味安堵したはずです。これ以上馬鹿げたことをさせないという思いを込めて、「ユダヤ人の前にあなたにはもう勝ち目はない」と忠告したのでしょう。

 「ユダヤ人の前にあなたにはもう勝ち目はない」という言葉の根拠を彼らは持っていたとは思えません。ただし、彼らの言葉には真実がありました。

 聖書を知っている読者にとっては、イスラエルの歴史はまさにそうでした。モーセ時代のイスラエルの民に対して、強大な力のエジプト軍は勝つことができませんでした。もちろん、それは神が共にいてくださったからです。逆に神に背く時には、あっという間に力を失うイスラエルでした。

 ハマンの妻や友人たちは、期せずして、まことの神には逆らえないという真理を口にしています。ここに描かれているのは、単にハマンとモルデカイの対立の話ではありません。神に敵対して生きる者の姿と、神に守られて生きる者との対比です。それでは、あまりにもハマンが可哀相に思えるかもしれません。しかし、ハマンに他の選択肢がなかった訳ではありません。ユダヤ人滅亡の計画を立てない選択がありました。モルデカイを柱に吊るす計画を取り合わない選択肢がありました。色々な場面での選択をあやまった結果の報いと言えるでしょう。少なくとも良心に従った選択をしていれば、こんな悲しい結末にはならなかったことでしょう。

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