メッセージ: 軽率なハマンの策略(エステル5:9-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
怒りの炎をコントロールすることは、大切なことですが、なかなか思うようにできないのが人間の罪深さです。もちろん、怒りそのものは、必ずしも悪いこととは言えません。
例えば、不正が横行する社会を見て、怒りを感じることは、正義感の表れでもあります。しかし、その怒りから何が生じるかには十分な注意が必要です。悪に対して悪で報いることは愚かしいことです。まして、感情的な軽率な怒りは、コントロールできなければ、大変な結果を招くことがあります。
今学んでいる『エステル記』では、ユダヤ人絶滅の計画がハマンの手によって進められようとしています。その知らせを受けたユダヤ人たちにとっては、それは衝撃的なニュースで、怒り、悲しみ、絶望と、あらゆる感情が錯綜したはずです。
その理不尽な計画に一人立ち向かおうとする王妃エステルは、冷静に物事に向き合います。もちろんその心中は最初から冷静であったはずはありません。複雑な感情が渦巻いていたはずです。そのために自分ばかりか、スサにいるユダヤ人たちにも断食を命じて心の備えをしています。
今日の場面に登場するハマンは、それとは対照的に、自分の感情をコントロールすることができずに、軽率で愚かな計画を再び立ててしまいます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 5章9節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
この日、ハマンはうきうきと上機嫌で引き下がった。しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれを見て、怒りが込み上げてくるのを覚えた。だが、ハマンは自制して家に帰った。彼は使いを送って親しい友達を招き、妻のゼレシュも同席させた。彼は、自分のすばらしい財産と大勢の息子について、また王から賜った栄誉、他の大臣や家臣にまさる自分の栄進についても余すことなく語り聞かせた。ハマンは更に言った。「その上、王妃エステルは御自分で酒宴を準備され、王をもてなされたが、王のお供として誰をお望みになったかと言えば、このわたしだけだった。明日もまた王と御一緒することになっている。だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「50アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。
前回は王妃エステルの準備した酒宴に、クセルクセス王とその家臣ハマンだけが招かれた話を学びました。王妃エステルがそのような特別な宴会を主催したのには、王に対して申し上げたい特別な願いがあったからです。慎重に準備された酒宴の席でした。
王と一緒に自分ひとり招かれたハマンにとっては、最高の栄誉でした。ハマンの虚栄心を満たすには十分でした。王と自分の他には誰も招かれていないのですから、自分が他の家臣たちよりもはるかに特別な待遇を受けている気分にさせてくれます。そればかりではありません。他の家臣たちよりも優れた扱いを受けたことよりも、ハマンの心をもっとくすぐったことは、王と同列の扱いを受けているということです。ハマンの心の中には、次は自分が王座を狙いたいという野心が芽生えたかもしれません。
宴会の席から自宅に帰るハマンの様子を、『エステル記』は「うきうきと上機嫌で引き下がった」と描写しています。その足取りの軽さが目に浮かぶようです。
しかし、そんなハマンの浮かれた気分を一気に萎えさせてしまうことがありました。モルデカイの存在です。この日も王宮の門にいたモルデカイは、ハマンが通り過ぎるのを見ても、立ちもせず動こうともしません。そもそも、ハマンがユダヤ人を絶滅しようとしたきっかけは、このモルデカイの態度が目障りだったからでした。
ハマンの心の中には怒りがこみ上げてきます。先ほどまでのうきうきとした上機嫌は一瞬にして消え去ってしまいます。しかし、この場は自分を制御して、ハマンは自宅へと帰ります。考えても見れば、ハマンはユダヤ人滅亡計画の王命を手に入れているわけですから、モルデカイのこの不遜な態度を目にするのも時間の問題と考えれば、取るに足りないと自分を説得することができたのでしょう。
帰宅したハマンは、親しい友人を家に招いて、妻のゼレシュも同席させたうえで、自慢話を聞かせます。何のためにそんなことをしたのか、理由はハッキリ記されていません。王妃エステルの酒宴に招かれたことがあまりにもうれしくて、それを誇らしげに語りたかったからでしょうか。あるいは、モルデカイがもたらした不快な感情を払拭したかったからでしょうか。あるいは、自分の功績や特別な待遇を語り聞かせることで、聞く者たちに自分への忠誠心をそれとなく植えつけようとしたのでしょうか。
せっかく上機嫌で語っていたハマンでしたが、モルデカイの記憶を頭から消し去ることはできません。ハマンが手にしている栄誉から比べれば、モルデカイなど取るに足らない存在であるはずです。今や王に取り入って王命まで出させるほどの実力を持っているハマンです。実権握っているのはハマンだといっても良いほどです。そうであるにもかかわらず。残念なことに、ハマンの心を支配していたのはハマン自身ではなく、モルデカイに対する感情でした。
饒舌に語るハマンの誇らしげな話も、結局はモルデカイに対する恨みつらみで結ばれます。
「だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」
なんとちっちゃな奴だ、とハマンのことを思いたくなりますが、しかし、些細な感情に支配されて抜け出せない人間の弱さがここには描かれています。
せっかくの自分の人生を台無しにしているのは、モルデカイのせいだ、とハマンは言いたいのでしょう。しかし、ハマンの人生を台無しにしているのは、モルデカイの存在ではなく、そのモルデカイを心に収めることができないハマンの心の在り様こそ、ハマンの人生を台無しにしている根源です。
そんなハマンの泣き言とも聞こえる愚痴を聞かされた妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて答えます。
「50アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」
この提案は、おそらく本気のものではなかったでしょう。ハマンの気持ちを一時的にでも紛らわすための方便としか思えません。というのも、50アンマの高さというのは、20メートルを超える高さです。7階建てのビルの高さに相当します。そんな柱を立てること自体、非現実的です。笑って取り合わず、その場を収めるのが大人の対応でしょう。きっと妻のゼレシュも友人たちもそうなることを期待していたでしょう。
しかし、ハマンはこの言葉を真に受けてしまいます。感情に支配されて、冷静な判断を失ったハマンの弱さです。けれども、この弱さは人間に共通した弱さでもあります。ここに、神の御前に立とうするエステルの姿と感情のままにふるまおうとするハマンの違いを見ます。