メッセージ: 海に投げ込まれるヨナ(ヨナ1:11-16)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしが学生のころの話です。「あなたにとって聖書の神は、どんなお方ですか。一言で言ったらどんな神ですか」と質問されたことがあります。「大いなるお方」、「恵み深いお方」、「正しいお方」…。いろいろと言葉は浮かんできましたが、自分にとっての一言はどれだろうかと考え込んでしまいました。そもそも聖書の神を一言で言い表すことなど不可能なこととも思いました。
いろいろと思ううちに、わたしの心の中に強く浮かんできた聖書の神のイメージは、「正しいお方」しかも、「義に対して厳格なお方」「罪に対して厳しい態度を取られるお方」というような、神の厳しい側面でした。それはその時、旧約聖書をよく読んでいたということも影響しているかもしれません。今、同じ質問をされたら、もっと神の恵み深さや慈しみ深さの方が強く出てくると思います。ただあの頃の自分はまだまだ神の愛についての理解も実感も乏しかったのかもしれません。
さて、きょう取り上げようとしている聖書の個所に登場する人々にとって、イスラエルの神は恐るべきお方とうつったに違いありません。もし彼らに尋ねたら、間違いなく「聖書の神は恐るべき大いなるお方」という答えが返ってくるでしょう。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 1章11節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
前回取り上げた個所では、ヨナの乗った船が大嵐に遭い、誰のせいでこんなことが起こったのか、とうとうくじ引きで犯人探しをすることになりました。くじはヨナに当たり、詰め寄る人々に、もはや自分を隠し通すことができないヨナでした。すべての事情を告白したヨナの言葉に、一体どうしたものかと人々は困惑します。くじ引きで災難をもたらした犯人が特定できたとしても、そのあとどうしたらよいのか、具体的な考えがあったわけではありません。胸倉を掴んで責め寄ったとしても、気持ちも嵐も鎮まるわけではありません。
荒れる一方の海に、とうとうヨナ本人にどうすれば良いかと人々は尋ねます。ヨナは答えます。
「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
ヨナはこの言葉を、一体どんな思いで語ったのでしょう。あまりにも冷静で淡々と語っているように感じられます。ヨナは神の命令に背いて船に乗って逃れようとした時点で、すでに死を覚悟していたのでしょうか。そうだとすると、死んででも従いたくないヨナの気持ちとは、一体どんなものなのかと、思ってしまいます。たいていの人なら、従いたくないとは思っても、死んでまでその意思を貫き通すことはしないでしょう。もちろん、間違ったことを命じられて、命を懸けてでも抵抗するということはあるかもしれません。ヨナにとって、この度の神の命令は正しいこととは思えなかったということでしょうか。
人々をこれ以上巻き添えにするのは心苦しいという思いは、果たしてヨナにあったでしょうか。それとも、やけっぱちで、海に自分を投げ込めと口走ってしまったのでしょうか。自分のせいで人々にも災難が降りかかっていることがわかっているのであれば、少しは謝罪の言葉があってもよさそうな気がします。何よりも、神の御前に自分の犯した罪を告白して悔い改めてもよさそうです。読めば読むほど、ヨナが心の中で何を考え、何を思って、自分を海に投げ込むようにと語っているのか、わからなくなります。
そんなヨナの言葉にもかかわらず、良心的で人道的なのは、まことの神を信じていない船の乗組員たちでした。ヨナの言う通りに手足を捕らえて海に投げ込むどころか、何とかして全員の命を助けようとして、必死で陸地にもどそうと船を漕ぎます。いくらくじが当たったとはいえ、またいくら本人がそれを認めたからといって、人の命をそれで奪ってしまうことには、良心の呵責を感じたのでしょうか。もちろん、このままでは船が沈没して全員が死んでしまうかもしれません。それでも、一人を犠牲にして自分たちが助かることには抵抗があったのかもしれません。あるいは、ヨナを海に投げ込んだくらいでは嵐がおさまるはずはないと、そう思っただけのことでしょうか。とにかく必死で陸に向かって船を漕ぎます。
しかし、陸地に船を戻そうとすればするほど、海はますます荒れて、波が襲いかかってきます。とうとう人々は、聖書の神、主なる神の名を呼んで助けを求めます。身に迫る恐怖感がそうさせたとはいえ、自分を海に投げ込んでくれと言い放つヨナよりも、ずっと信仰深いようにも感じられます。
彼らが神に祈る言葉も、真剣そのものです。
彼らは祈ります。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください」と。
これは神の正義に訴える祈りです。命令に背いたヨナの行動が死に値するものであったとしても、その道連れに関係のない人々をも滅ぼしてしまうことが、神の正義に適うかどうか、そこに訴えています。彼らにとっては、イスラエルの主なる神は、未知の神です。しかし、それでも神の正義を信じて祈っています。
続いて彼らは祈ります。「無実の者を殺したといって責めないでください。」
彼らにとって助かる最後の手段として、ヨナの言うとおりにヨナを海に投げ込むしか方法がないとしても、それでも、彼らは事の重大さを自覚しています。彼らにとっては、ヨナが有罪なのか無実なのか、知りようがありません。くじに当たったこととヨナ自身の告白が唯一の手掛かりです。それでも、本当は無実であるかもしれないとすれは、ヨナを投げ込む責任は重大です。しかし、このままでは全員が死んでしまうかもしれない。そんなジレンマの中で、決断を下さなければならない者たちの悲痛な祈りの言葉です。
最後に彼らは祈ります。「主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
何でもかんでも、主の御心のままに、と無責任に祈るのとは違います。人間の判断のぎりぎりのところで、神にすべてを委ねる祈りです。
こうして見てくると、まことの神を知らない人々の方がよほど敬虔な人々のように見えてきます。実は、それはヨナ書の一つのテーマであるように思います。選民意識が強いイスラエルの人々に対して、神を知らない人々にも信仰をお与えになる神の御心がこの書物にははっきりと指し示めされています。ヨナを海に投げ込んで、嵐が静まると、生き残った人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てます。まことの神を信じる信仰は、肌の色や言葉の違い、文化の違いを超えて広がっていきます。そうであるからこそ、宣教の働きには重い責任と希望があるのです。