【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
教会の中で心を合わせて祈る祈りに「主の祈り」があります。全部で6つの願いから成り立っていますが、3つ目の願いは、神の御心がこの地上でも行われますようにという願いです。
では、神の御心が行われないということはあるのでしょうか。もし、神の御心ではないことが実現してしまう可能性があるのであれば、一生懸命祈らなければならない理由がわかります。しかし、神の御心でさえ実現できないことがあるなら、神は何でもおできになる全能の神ではなくなってしまいます。しかし逆に、神の御心だけが必ず実現するのだとすれば、祈っても祈らなくてもよさそうな気がします。確かに旧約聖書箴言には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります(箴言19:21)。
ここで神の御旨や御心が実現するというときに、ふた通りの意味があることを理解しなければなりません。一つは「御心の天になるごとく」と言われている部分です。罪のない天上の世界では、神の御心はそのままその通りに実現していきます。この主の祈りの願いは、そのような御心の実現を第一に願っています。では、もう一つの御心の実現の仕方とはどういうことでしょうか。罪ある世界では、しばしばこの地上で起こることには罪が介入してくることがあります。
旧約聖書の中にはこんな例があります。『創世記』の中に出てくるヨセフという人物は、最終的にはエジプトの大臣となり、父のヤコブをはじめ、一族の命を救うことになります。これは先祖アブラハムに約束した神の御心の実現です。しかしヨセフがエジプトで暮らすようなるきっかけは、兄たちの妬みでした。兄たちの妬みによってヨセフはエジプトに売り飛ばされることになったのです。ではヨセフの兄たちの行動は神の御心かというと、決してそうとは言えません。神は人が罪を犯すことをご自身の御旨とされるようなお方ではありません。
見方を変えれば、神は人間の罪をも善へと変えて、御心を実現してくださるお方です。しかしヨセフの話のように、いつも結論が明らかとは限りません。御心がどう実現したのかわからないことの方が多いのが現実の世界です。ですからローマの信徒への手紙の中で言われている「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを」(ローマ8:28)信じる信仰が求められています。
ところで、結局のところ神の御心がなるのであれば、なぜ祈る必要があるのでしょうか。確かに主イエス・キリストも「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:8)とおっしゃっています。私たちの必要をすべてご存じで、御心をなしてくださる神に、なぜ祈るのでしょう。それは、わたしたちが自分の本当の必要を祈りを通して教えていただくため、また祈ることで神の御心を知る訓練を受けるためです。
ちょうど小さな子供がお父さんやお母さんにおねだりをして、ほんとうに自分に必要なものかどうかを逆に問われて試されるのと似ています。神の御心や自分の必要を知らないからこそ、祈ることを通して学ぶことができるのです。祈ることで、わたしの思いがだんだんと神の御心に近づいていくことができます。ちょうど小さなボートの上から大きな船を引き寄せようとしてロープを手繰り寄せているうちに、気が付けば自分が乗った小さなボートが大きな船にぴったりと近づいてしまうのに似ています。
こうして「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、まず祈るその人のうちに徐々に成し遂げられていくのです。