【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
イエス・キリストが弟子たちに、祈るときにはこう祈りなさいと教えてくださった「主の祈り」について、今週も取り上げたいと思います。
この祈りには、全部で6つの願いが出てきますが、最初の3つは神に関わる事柄です。先週は最初の願いである「御名があがめられますように」という言葉について学びました。今回は2番目の願いについて学びます。2番目の願いは「御国を来たらせたまえ」という願いです。「御国」とは「神の国」のことで、神が王として支配してくださることを意味します。
イエス・キリストはガリラヤで宣教を始められるときに「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と第一声を上げられました。またあるときには「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)ともおっしゃいました。近づいたというだけではなく、イエス・キリストとともに神の国がすでに到来していると断言します。
同じようなことをファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」という質問をしたのに対してこう答えていらっしゃいます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21)この言葉は、神の国は目に見える形ではないけれども、わたしたちの間にすでに確かにあるとおっしゃっているように聞こえます。
そうであるとするなら、主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈るのはなぜでしょう。それは、目に見えない神のご支配がよりいっそう明らかとなるようにという祈りであるか、あるいは、キリストとともに進展し始めた神のご支配が完成に向かって進みますように、という祈りであるか、どちらかの意味でしょう。いえ、どちらかというよりは、神の支配が完全なものとなるときにこそ、神の支配は明らかとなるといえます。この祈りはそのことを願う祈りです。
考えてもみれば、この天地万物とその中で起こるすべてのことは、天地万物が造られたときから神のご支配のもとにありました。神の知らないところでなにかが起こることはなく、また神の支配が及ばない世界はありませんでした。しかし、人間の目にはそうは映りません。人類の堕落の時以来、悪は依然としてはびこっているように見えます。また死は変わることなく、人間を支配しているように見えます。けれどもキリストを信じて、キリストを通してこの世界を見るときに、神のご支配を身近に感じることができます。
この祈りは、何よりも自分自身のうちにキリストのご支配を祈り求める祈りです。神のご支配を認めない誰かの頑なな心が打ち砕かれることを願う祈りである前に、自分自身を神のご支配に明け渡して歩むことができるようにという祈りです。
初代教会の人々の間では「マラナ・タ。主よ来てください。」という言葉が唱えられていました(1コリント16:22、黙示録22:20)。この言葉は、主イエス・キリストご自身が世の終わりの時に再び来てくださる、という約束に呼応した言葉です。その時には、神のご支配は完全な姿となって現れます。ですから「マラナ・タ」という言葉と「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉は、密接に関わっています。神の国の完成の日が約束通り来ますようにと願いながら、自分自身を神のご支配のもとに置いてくださるように願いましょう。