【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。
夏がやってきました。夏と言えば私の場合、自分がボーイスカウトであったときのことを思い出します。皆さんは、ボーイスカウトとか、ガールスカウトという団体を聞いたことがあるでしょうか。
私は小学校3年生のときにボーイスカウトに入隊しまして、カーキー色のユニホームを着て毎週集会に参加し、地図の読み方やロープ結びや手旗信号や飯盒炊さんなど、野外活動をする上での技術を沢山学びました。ときには山にハイキングに行ったり、キャンプをしたり、自転車で何十キロとツーリングをしたり、雪山登山をしたりもしました。成人すると、今度はボーイスカウトの指導者となるために、研修所で訓練を受けました。
その研修に参加したときのことです。初日の開所式で、所長が開会の挨拶をされたのですが、その中で言われたのが「啐啄同時」という言葉でした。皆さんは「啐啄」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「啐啄」の「啐」は、口へんに卒業の「卒」という字で、「啄」は口へんに「ぶた」と書きます。石川啄木の「啄」です。
所長の話によりますと、卵から孵化しようとする雛鳥は、自分の力だけでは殻から出て来ることができず、親鳥に外から卵の殻を突っついてもらい、割るのを手伝ってもらわなければならないそうです。そこで「啐」とは、雛鳥が孵化する準備ができたことを母鳥に知らせるために殻の内側からコツコツと突っつくことを指し、「啄」は母鳥が外から殻をコツコツと突っつくことを指すのだそうです。
そこで大事なのは「啐」と「啄」が同時になされることなのだそうです。ずれてしまうと、どちらが先でも良くありません。それになぞらえて「啐啄同時」の意味するところは、教える者と習う者が意気投合した時に、はじめてきちんと学んで身に着けることができる、ということなのだそうです。それを聞いて「なるほど」と思いました。研修所の所長は、私たちが学ぶべきことをちゃんと学べるように、私たちの心に「向上したい」という気持ちを持たせたくて助言してくださったのですね。
この「啐啄同時」という言葉を別の視点から見るならば、これは神様と私たち人間との間においても言えるのではないでしょうか。ヤコブの手紙4章8節には次のようにあります。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」
私たち人間は、自分の力だけでは、どう頑張ってもまことの神様を見いだすことはできません。けれども神様はいつでも「啄」できるように、私たちからの「啐」の合図を待ち望んでおられます。聖書によれば「啐」と「啄」が同時に起こるとき、私たちは自分の罪の硬い殻から出ることができて、新しい命を与えられ、本来あるべき自分の姿に造り変えられて、新しい人生を歩んで行くことができるようにされます。
実は、神様からの「啄」は、すでに私たちに与えられています。聖書がそれです。また今、聖書の言葉に耳を傾ける、このラジオ番組「キリストへの時間」がそれです。今、神様に心を開いて、神様を求める心で近づいてみませんか。それが皆さんの「啐」です。
今日皆さんが神様への「啐」をすることによって、「啄」の恵みを豊に受け取ることができますよう、心からお祈りします。