ごきげんいかがですか。神奈川県の茅ケ崎市にあります湘南恩寵教会の牧師をしております、坂井孝宏と申します。
聖書には、にわかには信じられないような驚くべき奇跡について記されているものですけれども、例えば90歳の女性が子を産むっていう、そんな奇跡がありましたり、モーセが海を割ってエジプトから脱出するなんていうのは有名かもしれませんが、イエス様がなさるたくさんの癒しの奇跡も、本当に載っています。
最大の奇跡は、イエス・キリストの復活です。十字架で死なれたイエス・キリストが、墓に葬られた後に、3日後によみがえられたっていうんですね。これ、ただの生き返りということとは違います。死んだ者が生き返ったという奇跡だったら、他にもいろんなところで起きているかもしれませんけれども。でもそうやって生き返った者も、やがてはもう一回みんな死んだんですね。
イエスの復活っていうのは違います。もはや死はないんです。よみがえられたイエス様は、死の力を完全に打ち破られました。そして私たちとは違う栄光の体をもってあらわれてくださいまして、その体のままで天に上っていかれました。そうして私たちに、永遠の命に至る道を開いてくださったと、そんな風に私たちは信じてるんです。
こういう復活ということを耳にして、そんなバカな、信じられないと思う方も多いと思うんですね。それが普通だと思います。ある人がこんなことを言っていましたけれども、子どもの時から教会で育ったんだけれど、小さい頃は素直に聴いていた聖書のお話に、成長につれだんだんとこう反発を覚えて来ます。そこで日曜学校の先生に挑発するような思いで「復活なんて本当にあるの?」と、こうやって問いかけたと。そうすると、その先生は微動だにせずに「先生は信じているよ。神様にできないことはない。」と言われたそうです。それで、この人にはかなわないと思って、自分も信じることへと導かれたそうです。今、私も同じように信じてるんです。神様にできないことはありません。
でも、だからといいまして、その、神様を信じていれば必ずすべては思い通りにいくとか、病気も治る、トラブルが解決するなんて、そんなことは申し上げません。そんなことを信じてはいません。そういう風にして祈りが聞かれたっていう経験も、私はたくさん持ってます。本当に奇跡としか思えないような仕方で病の癒しを経験した方のことも知ってますし、祈りが聞かれたという経験をたくさん、たくさんもっております。だけれども、まだ実現していない祈りもたくさんあります。癒してください、この人のことを癒してくださいと祈ったけれども、最後まで実現しなかったっていうことも何度もあります。
どうしてその祈りが聞かれなかったのかって、そんなことは私には分かりません。ただ私の信仰が足りなかったとか、私が悪いことをしたからそうだったとか、そんなことは少しも思いません。そんな風に考える必要はありません。本当に、神様の御業っていうのは、私たちの信仰や信念によって自在に操れるものではありませんから。神様がよしとされる時にだけ、ただその憐れみによってさまざまな癒しや奇跡ってものが起こりますから、私がどうあろうが関係ありません。
面白い言い方があるんですけど、よく日本人は「宗教をやる」なんていいますが、そういう場合の宗教というのは自分のためにあるんです。宗教は自分のためにある。でも信仰は神のためにあるんだ、そんな風な言い方が。キリスト教信仰というのは、神様がやれと言われることに従っていく。自分たちの思いより、神様の思いを大事にします。私たちには計り知れない神の御心があるんですね。だから祈りが聞かれないからと言って、そんなことで神を微塵も疑いはしません。
むしろクリスチャンは、祈りが聞かれようが聞かれまいが、どんな時も全能の父なる神を信じるかゆえに、希望を失うことがありません。それは驚きの信仰かもしれませんけれども、神がなさることには必ず意味があるんです。大いなる神様がこの小さな私たちの思いを超えて実現していかれる、一つ一つのことに信頼します。そして私たちはどんな時だって信じています。神にできないことはありません。イエス・キリストを死者の中から復活させてくださった方が、どんな絶望の中にも、希望を生み出してくださると信じます。たとえ私たちに地上の死が与えられたとしても、それで終わりでもありません。その死の絶望の中からも、神は必ず希望を生み出してくださる。その死の向こうにさらに命が始まっていくんです。それが私たちの信仰です。
私たちの神は、天地をつくられた神です。何もないところに命を生み出し、死者に命を与える神です。その方が、今や私たちの味方でいてくださいますから。友でいてくださる。父でいてくださるから。だから、私たちは信じます。どんな絶望があろうとも、主は私たちを決して悲しみの中に置いたままにはしておかれません。