ごきげんいかがですか。神奈川県の茅ケ崎市にあります湘南恩寵教会の牧師をしております、坂井孝宏と申します。
先日私どもの教会で葬儀があったんですけれども、大変祝福された葬儀をすることができてご遺族の皆さんもとても喜んでくださいました。その天に召されました姉妹の枕元の聖書に、詩編の23編のところにしおりがはさんでありました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と始まります詩編23編の御言葉というのは、聖書の中でも特別に愛されてきた御言葉でして、ご自分の愛唱聖句としてこの詩編を挙げられる方がダントツに多いんですね。
この詩編は、神様のことを羊飼いにたとえてうたっているんですけれども、パレスチナの渇いた荒れ野で羊たちを必死に養う羊飼いのように、神はいつでも私たちを緑のまきばに導いてくださって、いつも魂をみずみずしく支えてくださる。この神様がいるから、私には何も欠けることがないと歌うのです。
そして、そういう羊飼いである神様がいつでも私と共にいてくださる。だから私は恐れることなく生きていくことができる、という。こういう信仰告白が、この詩編のちょうど真ん中のところに示されています。それが4節の有名な御言葉です。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」死の陰の谷を行くというのは、まっくらな、どこまでも先の見えない荒野の道を歩いているイメージです。しかし、そんな道を歩みながらも、神が共にいてくださるから、わたしは災いを恐れないといいます。
ここもおもしろいところなのですが、「災いを恐れない」というのは、「災いが来ない」じゃないんですね。キリスト教信仰というのは、信じれば災いはない、ですと。無病息災ですというそういう教えじゃないんです。そんなのはありえない。生きるのは本当に苦しいことです。生きていれば、何等かの災いもあります。必ず涙もあります。痛みや悲しみから、まったく逃れて生きていくことなんてできません。そういうものがないように、そういう災いを全部私から遠ざけられるようにと神様にお願いするというのが宗教だと思っている方も多いかもしれませんけれども、キリスト教信仰ってそういうもんじゃないんですね。そうじゃなくって、災いに直面しようとも、わたしは恐れない、って言うんです。なぜなら、神が共にいてくださるからです。
そしてこの詩編23編の最後にはこういうふうにあります。6節の言葉です。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。命のある限り、というのはわが生くる日のかぎり、ということです。
私たちの人生というのは、生きている間ずっと神様の恵みと慈しみによって、いつも追いかけられているようなものだというんです。私たちがどこに行こうとも、神が私たちの人生に深い関心を示していてくださって、いつも恵みと慈しみを注ごうと追いかけていてくださるんですね。私たちが追いかけるんじゃないんです。私たちが私たちの人生に恵みをください、慈しみをくださいと必死で追いかけるような人生じゃないんです。そうじゃなくてまったく神様のほうで、この役に立たないような私を大切な羊として覚えてくださって、いつも追いかけてくださる、追いかけ続けてくださる。たとえ私が歩けなくなって、たとえ私がすべてを忘れていったとしても、羊飼いである神様がいつも追いかけてくださいます。
そしてその羊飼いについに追いつかれる時がきます。神様に完全につかまえられて、もう完全にこのやさしい羊飼いの手の中に置かれる時がきます。それが、死の時です。私たちにとって、死というのはそういう時です。生きている間ずっと追いかけ続けてくれる、神の恵みと慈しみに完全に捕えられる時。ついに追いつかれる時。だからこそ、私たちにとっては死は恵みの時なのです。