おはようございます。広島にあります、平和の君教会の山下です。
今日は少し重いテーマになるかも知れません。わたしは3年前、遠藤周作氏の名作『沈黙』を題材にしたマーティン・スコセッシ監督の『サイレンス』を観に行きました。愚かにもコーラとポップコーンを手にして。
お話は、ロドリコというポルトガル人宣教師が、彼の師であるフェレイラがどうして棄教したのかを知るため、キリシタン禁教下の五島列島の村に潜入するところから始まります。彼はそこであまりにも悲惨で残酷な迫害を目の当たりにし、憤りを感じ、ますます殉教への高まりを強く覚えます。しかしまもなく彼も捕えられ、長崎奉行所へ送られ、そこでフェレイラに出会います。フェレイラから棄教することを求められるのですが、ロドリコは頑なに拒み続けます。
けれども彼が拒めば拒むほどキリシタンへの拷問は続き、遂に彼らを助けるため踏み絵に足を下ろしたその時、あの人(キリスト)の声を聞きます。「わたしは、おまえたちに踏まれるため、この世に生まれ、おまえたちの痛みを分かつために十字架を背負ったのだ。」映画はまだ続きますが、その名の通り、何処までも静かで沈黙したままで、結局ポップコーンは食べられずじまいでした。
この詩編28編1節(「主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ、わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるならわたしは墓に下る者とされてしまいます。」)で、詩人は「わたしの主よ、わたしに対して沈黙しないでください」と嘆願しています。彼の祈りに神は沈黙したままなのです。私たちは、祈りは神に聞かれる、いや私たちが祈る前にそのことをご存じなのだと教えられています。だから私たちも励まされて実際祈ってきたのです。
けれどもそれが、ここでは通じません。どうして神様は、この私の祈りに答えてくださらないのか、いぶかり、戸惑います。しかしわたしは、それは神様がご存じないからでも、神様が聞かれていないのでもない、何よりも私たち自身が神様のみ心をまず求めていくためなのだ、そう受け止めています。「僕、聞く、主よ語りませ。」あの、少年サムエルの祈りの如くです(サムエル上3:1-14参照)。
私たちはすぐに祈りが聞かれることを求めがちです。しかし神様のお心を私たちが尋ね求めていく、それを聞き取ることが、聖書の語る、真実な祈りの始まりなのです。むしろ聞かれない祈りにこそ、神様の誠実、神様の深慮、神様の深い憐れみが示されているのではないでしょうか。何故なら、神様がこの私の主であり、この私の最も良き導き手だからです。祈り続けることに大きな恵みがあるのです。