おはようございます。広島にあります、平和の君教会の山下です。
ここ広島は、長崎と並んで唯一の被爆都市です。今から76年前、一発の原子爆弾が落ち、およそ14万人もの尊い命が一瞬にして奪われました。平和記念公園内の供養塔には、その時亡くなられた引き取り手のない遺骨が今でも約72,300柱納められています。わたしは広島に来てから毎年、被爆者や二世の方の被爆証言を聞く機会があります。はじめは新鮮な思いで聞いていたのですが、やがてそれは、その方自身の身近な親や兄弟についての辛く悲しい悲惨な体験談、自分史だと気づかされました。
この詩編23編は、詩編の中でもよく読まれ、語られてきた詩編の一つでしょう。特にこの冒頭のみ言葉は、何となく幸いに満ちた、のどかな光景すら思い浮かべます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)けれどもこのみ言葉は、これをうたっているダビデにとって、主なる神様との断ち切れない深い絆について語っているのです。
決して、自分がこんなにも幸せですと誇ったり、神様との関係はこんなにも素晴らしいものです、と吹聴しているのではありません。むしろダビデは幾度となく厳しい状況の中に陥り、何度も死を覚悟しないといけないところに立たせられました。でも、そこからこのわたしを神様は助け出し、引き上げ、救ってくださった。その神様の憐れみと恵みのみ業をほめたたえているのです。
彼は「主は羊飼い」とうたい出します。これは本来すんなりと読むことのできない告白です。というのは、ここでの「主」はヤーウェのことで、イスラエルの人たちにとって口にしてはならない畏るべき呼び名だったのです。いうなれば「威厳ある気高いお方」ということです。それに対し「羊飼い」は、元の言葉に「わたしの」が入っています。羊であるこのわたしにとって、わたしを心から愛し、慈しみ、導く優しい羊飼いなるお方のことです。
どうして畏るべきお方がこのわたしの羊飼いとなってくださるのか。それは、そこにイエス・キリストのあがないのみ業が献げられているからです。天の天も入れることのできない畏るべきお方が、このわたしの羊飼いでいらっしゃるという驚き、喜び、恵みがここには深く込められているのです。どんなに万事休す、絶体絶命の中に私たちが陥っていても、そこから私たちを必ず引き上げ、助け出し、導き、共にいてくださる羊飼いなる神様、憐れみ深い救い主イエス・キリストがおられるのです。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがありません。」このダビデの告白があなた自身の告白でもあることを見いだし、喜ぶ時が来ますようにお祈りしています。