おはようございます。ごきげんいかがでしょうか。新所沢教会の牧師、長田です。
教会では礼拝の時にプログラムを配ります。そこには昔から使われてきた少し難しい言葉がいくつかあります。その中の一つに「説教」という言葉があります。礼拝の最も中心、牧師が聖書のお話をすることです。
最近はむしろあまり言わないのかもしれませんが、以前は親や先生に叱られることを「お説教される」と言いました。教会で説教される、説教を聞くために教会へ行くというと、何か叱られるのではないかと思われてしまうかもしれません。
「教会では叱られて水をかけられるんでしょ。」と言われたこともあります。昔あるテレビ番組の中で、NGを出したタレントが神様役の人に「ざんげ」して、水をかけられるコーナーがあったのを覚えているのでしょう。教会に行ったら叱られたり、水をかけられる。そんなはずはありませんから安心してください。むしろ教会に行って礼拝で説教を聞くと、私たちはとても励まされ、元気をもらえるのです。
もちろん私たち人間は間違えることもあります。神様から見れば間違いばかりです。間違えた時には謝ります。注意を受けることもあります。大人になると他人から注意される機会はなかなかありません。聖書はそんな私たちを愛情をもって注意してくれます。厳しさを伴ってこそ本当の愛です。教会には本当の愛があるのです。
聖書を読みます。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5-6)