皆さんお元気にお過ごしですか。私は、西武新宿線花小金井駅南口グリーンロード沿い、小平方面徒歩7分、花小金井教会牧師の小堀昇と申します。どうぞ宜しくお願い致します。
さてイエス様は次のように言われました。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイ5:6)ユダヤ教は人が神の前に立てる義を説きました。しかしイエスは、神が人のために備えられた義を説かれたのです。
義というのはどこまでも、神が人にお与えになられるものなのです。しかし人はそれを自分で何とか、自分の手でその義を手に入れようとするのです。しかし残念ながら、人は自分の力では決して神のみ心に適うことはできないのです。神のみ前に義と認められることはありません。神がキリストを通して、救いを備えてくださったがゆえに、人は神の前に、ただ一つ義と認められるのです。
ここで言われている「飢える」あるいは「渇く」という言葉は、非常に強い欲求を表す言葉です。一つだけでも、もし得ることができなければ死んでしまうほどの、強い欲求を表しています。このような人々にはどのような祝福が約束されているのでしょうか。それは、天の国に入ることができるようになり(マタイ5:3)、慰めを受けることができるようになり(マタイ5:4)、地を受け継ぐことができるようになり(マタイ5:5)、満たされることができるようになるということです(マタイ5:6)。いろんなことが言われていますけれども、これは、神様と正しい関係を持つことができるということです。
神を信じると何か縛られる、そのように思う人もいます。しかし魚が水の中で最も自由であり、列車は線路の上でこそ自由に走ることができるように、人は神様との交わりの中にあるときにこそ、本当の意味で自由に生きることができるのです。あなたもこの自由をどうぞ得てください。