いかがお過ごしでしょうか。東京練馬の光が丘キリスト教会で牧師をしております、尾崎純と申します。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これはキリストの言葉です。キリストから見ると、私たちは疲れているらしいのです。私たちは重荷を負うことに慣れてしまって、それが当たり前になってしまっているのかもしれません。しかしキリストは、そのような私たちを休ませたいのです。
ただキリストは「何もしなくていいよ」とは言わず、「わたしの軛(くびき)を負いなさい」と言います。軛とは、牛の首に付ける木のことです。軛の後ろの方には地面を掘り返すための鋤が付いていて、牛はそれを引いて働くのです。
結局、大変な仕事をすることになりそうですが、それなのに「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)と言われています。どうしてかと言うと「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:30)ということなのです。
キリストの目には、私たちは背負いきれないほどの重荷を背負わされてきた、と映っています。それも、誰も私たちの重荷を共に負ってはくれず、ただ私たちに背負わせるばかりだった、と。その私たちにキリストは言うのです。あなたが一人で重荷を背負うことはない。私も一緒に背負って歩こう。実は軛とはそういうものなのです。
軛は、先輩の牛が後輩の牛をリードして、2頭で引くものなのです。「あなた一人で重荷を負うことはない。わたしはあなたを一人にはしない。」これが、キリストの思いなのです。