おはようございます。田無教会牧師、中山仰です。
遠藤周作の『沈黙』をお読みになったことがありますか。一人の宣教師の前に、キリスト教信仰を捨てさせる専門の役人が登場します。その役人は危害を加えず、穏やかに静かに、一室に彼を置き去りにします。
暫くして宣教師が落ち着くと、遠くから民謡を歌うような声が聞こえてきます。それは、キリシタンたちが迫害されて耳に穴を開けられ逆さに吊り下げられている苦しみの声であることが告げられます。その声を聞いているうちに、この主人公の宣教師は葛藤します。結局、自分が転向すれば彼らの苦しみが無くなることは神の御旨であろうという結論に達して、遂に信仰を捨てることを表明します。
この選択は、目の前の苦しみがたちどころに去るようでいながら、結局は救われない方向を選び取ってしまいます。現実にキリシタンたちのその後を見ると、領地から追い出され、各地に一定の人数で幽閉される悲惨さを味わわされることになります。これが歴史的事実です。
神によって造られた初めの人アダムとエバも、サタンに誘惑されました。後に残ったものは、神を恐れ、神から身を隠す苦しみしかありません。イエス・キリストの生涯の初めに、悪魔はあらゆる手を用いて誘惑します。しかし聖書の言葉を用いてすべて退けてくださったお方は、ご自分に従う者を守ってくださいます。あなたは悪の奴隷がいいですか。それとも神の子どもとしての自由を得る方がよいですか。今朝、問われています。