いかがお過ごしでしょうか。せんげん台教会の川栄智章です。
聖書には、神さまは「公正な裁判官である」と書かれています。従いまして神さまが与えてくださった律法には、「訴訟において、見た目が貧しかったり、乏しい人の判決を曲げてはならない」こと、「偽りの証言をして人を陥れてはならない」こと、「罪なき人、正しい人を殺してはならず」、「賄賂は人の目を見えなくし、正しい人の言い分を歪めてしまうために、受け取ってはならない」ことなどが書かれています。そして特に弱者や寄留者を顧みるように勧めています。(以上出エジプト23:6-9参照)
しかし実際には、(旧約聖書時代の)イスラエルにおいてそのような社会は実現されたことはなく、常に悪人たちがのさばり、たとえ全面的に正しく敬虔であっても、貧しい者、未亡人、孤児、寄留者たちが悔しい判決を受けて誤解され、抑圧や迫害を受けてきました。同じように、現代の私たちの日常を見ましても、理不尽で、不条理なことが満ちているのではないでしょうか。そして悔しさの余り、涙を流しながら唇をかみしめるのです。「ああ、神の義はいったいどこにあるのか。」と。
神の公義の完全な現れである「公正な裁判」とは、キリストの再臨の時になって初めて完全に現れるでしょう。その時になれば、神さまには全くえこひいきがなかったこと、完全に公平なお方であったことを、全ての人が思い知らされ、不当な扱いを受けてきた者の悔しさと涙が、神の正義によって拭われるのです。