いかがお過ごしでしょうか。せんげん台教会の川栄智章です。
ガラテヤの信徒への手紙6章(1-5節)には、イエス様を信じて、兄弟姉妹、互いに愛し合い、絶えず良き業をするようにと励ましています。しかし良く考えてみたら、イエス様を信じて、全ての罪が赦されるのだから、別に良き業をしなくてもいいではないかと思われる方も、もしかしたらおられるかもしれません。
しかし、パウロは次のように説明しています。農夫が収穫を望むならば、自分の畑に種を蒔かなければなりません。その上、農夫がどのような種を蒔くのかによってどのような収穫を収めることができるのかが、あらかじめ決定されるわけです。まさか、自分で麦の種を蒔いておいて、トウモロコシやトマトやカボチャの収穫を期待する農夫はいません。このような世の自然現象と同じようなことが、世の終わりの日においても当てはまると言います。
私たちが良い種を蒔けば、良い実を収穫することができるのであり、さらに多く種を蒔くなら、さらに多くの収穫を期待することができるのです。このように、イエス様の恵みは、決して自然法を破棄することはないと言います。
イエス様により頼み、信仰によってたゆまず善き業を行う信仰者には、天にその報いが積まれていて、終わりの日に、つまりキリストが再臨される日に、天に積まれた報いの分配に与ることになるでしょう。この地で涙と共に蒔かれたものが、新しいエルサレムにおいて喜びと共に収穫されるのです。