聖書を開こう 2020年12月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  ボアズの配慮(ルツ2:8-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書詩編41編の出だしは、こんな言葉で始まります。「いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。」

 旧約聖書の伝統には、弱いもの、助けを必要としているものに対する配慮や施しを美徳とする伝統がありました。

 そうした伝統が育まれた背景には、もちろん、モーセの律法によってそうした弱者への配慮が義務付けられていたからということもあります。しかし、それだけではありません。第一に、すべての祝福と恵みは神からくるという信仰がありました。富も才能も、すべて神からいただいたものなのですから、それをあたかも自分の力で得たかのように独り占めすることは、正しくないと思われていました。第二には、イスラエル人たちがエジプトでの苦役を経験し、社会的弱者がどれほど辛いものであるかを経験しているからです。

 今日の社会では、弱者の存在を何かと「自己責任」という言葉ですべてを片付けてしまおうとする風潮がありますが、それとは真逆な考え方です。弱者に手を差し伸べるのは裕福な者にとって当然のことだったのです。

 今日取り上げようとしている個所には、ボアズの配慮に満ちた行動が記されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 2章8節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。「こちらに来て、パンを少し食べなさい、一切れずつ酢に浸して。」ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」

 きょうの個所でボアズは初めてルツに声を掛けます。それは、他の畑には行かないようにという提案でした。自分の畑で、一日に必要な大麦をすべて拾い集めるようにという配慮です。社会的な弱者が落穂を拾い集める権利は、モーセの律法によって保証されていましたが、それでも、意地悪をされないとは限りません。安心して落穂拾いができるように、自分の畑にとどまるようにと提案します。

 そればかりではありません。自分の畑の使用人がルツに対して邪魔をしないようにとさえ命じる周到さがボアズにはありました。ボアズは畑の使用人たちの善意を信用していなかったわけではありません。しかし、人間の弱さもまた知っている人でした。特に若者たちは、弱者に対する想像力も十分ではないことはありがちなことです。ちょっとした配慮の不足が、相手を傷つけてしまうこともあります。

 この先に何起こるのか、という想像力は、その人の行動を決定づけます。想像力の乏しい人は、配慮にも乏しい人です。しかし、ボアズはそうではありませんでした。畑で働けば、当然喉も渇きます。喉が渇いたらどこで喉を潤せばよいか、ルツが困ることのないようにボアズは配慮します。

 ここまでの親切心に、ルツも驚くよりほかはありません。顔を地につけてひれ伏します。

 「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」

 ルツには自分は外国人であるという負い目がありました。よそ者扱いされても当然だという覚悟もありました。しかし、身に余るようなボアズの言葉には恐れ入るよりほかはありません。「心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました」と語るルツの言葉は、嘘偽りのないルツの本心です。朝から他人の畑で落穂を拾ってきたルツの心には、ずっと張り詰めていた思いがあったはずです。

 もちろん、先週取り上げた個所に出てきた通り、ボアズは自分の召使からルツの素性を聞いていました。自分の親戚であるナオミとの関係もこの時点ではわかっていました。しかし、ルツに対するボアズの親切は、身内のものだからという理由だけではありませんでした。

 自分の愛する配偶者を失ってもなお姑に対して尽くしてきたこと、そのために自分の両親と故郷に別れを告げて、見ず知らずの国へやってきたこと、その何もかもが、すでにボアズの耳にも届いていました。それは知ろうとして得た情報ではありません。町ではその噂でもちきりだったということです。ルツについては良い噂しか聞こえてこないということでした。

 もちろん、噂ですから、ボアズはそれが本当かどうか確かめたわけではありません。しかし、召使の報告では、この日だけでもルツは朝から今までずっと立ち通しで勤勉に働き続けてきたのですから、その噂は本当だとボアズは確信したことでしょう。

 ボアズのルツに対する配慮は、まだ続きます。

 食事の時には進んで声を掛けます。ルツの必要を想像して、自分たちのパンを食べるようにと勧めます。落穂を拾いに来るような人が、お弁当など持参できるはずはないと、想像できるボアズです。遠慮するかもしれないルツに対して、ボアズは自分から炒り麦つかんでルツに渡すほど配慮のできる人でした。ルツはルツで、食べきれないほどの食事を家で待つ姑のために持ち帰ります(ルツ2:18)。

 食事のあと、再び落穂拾いを始めるルツに対して、ボアズはさらに特別な配慮を示します。若者たちに命じて、麦束の間で集めることも、わざと麦束から抜いて落としておくことさえも命じます。このような配慮は異例のことと言わざるを得ません。こうしてルツが安心して落穂ひろいに専念できる環境をボアズは提供しました。

 ここに記された一連のボアズの親切は、ボアズの神に対する信仰と深く結びついています。畑にやって来た時から、ボアズは使用人たちに対して、自分から先に声をかけて「主があなたたちと共におられますように」と挨拶します。その挨拶の言葉も信仰にあふれた言葉です。これをただの習慣的な挨拶の言葉と受け取ってはボアズに失礼でしょう。使用人たちもごく自然に「主があなたを祝福してくださいますように」と挨拶を返します。この畑の主人と農夫との関係が、信仰に裏打ちされた良い関係であることを示しています。

 ルツに対しても、神の御翼の陰に助けを求めて逃れてきた一人の信仰者として受け入れています。ボアズの態度はただ身内びいきから出たものではありません。神への畏れと信仰がボアズの生き方を裏付けているのです。

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