聖書を開こう 2020年11月5日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  ティキコの派遣と祝福の言葉(エフェソ6:21-24)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 エフェソの信徒への手紙もきょうで最後の学びになります。およそ半年にわたる学びでしたが、きょう取り上げる箇所は、手紙の結びの部分です。どこの国の手紙でもそうだと思いますが、結びの言葉はある程度決まりきった言い方で結ばれます。聖書に収められた書簡も、共通した言葉遣いや内容で最後は結ばれます。

 けれども、すべての書簡が同じ言葉で結ばれているわけではありません。それぞれ少しずつ言葉使いや表現にバラエティがあり、手紙を書いた人の気遣いをそこに感じます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章21節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。

 今お読みした個所は、ティキコを派遣して、自分の様子を知らせようとしている部分から始まっています。

 パウロがこの手紙を書いたとき、獄中にいたことは、6章20節からも明らかなとおりです。獄中から書かれた手紙はほかにも何通かありますが、エフェソの信徒への手紙を含めて、それらの手紙は獄中書簡と呼ばれています。その獄中にいたパウロの様子を知らせるために派遣されたのが、ティキコです。

 ティキコの名前が新約聖書に登場するのは、ここを含めて5回あります。ティキコはわたしたちにとってはそれほどなじみのない人物であるかもしれませんが、少なくとも、この手紙の受取人にとっては、よく知られた人であったことでしょう。

 使徒言行録20章4節によれば、ティキコはアジア州の出身です。その時、パウロに同行して、アカイア州やマケドニア州で集めた献金を携えてエルサレムに上った人たちの一人でした。アジア州出身ですから、エフェソの人たちとは親しかったかもしれません。

 パウロはティキコのことを「主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者」と呼んでいます。同じようにティキコの名が登場するコロサイの信徒への手紙でも、ティキコは「主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者」と呼ばれ、さらには「仲間の僕」と付け加えられています。忠実に仕える者という点では、献金を携えてエルサレムに上る七人のメンバーの一人に選ばれたことから考えても、忠実な人柄がうかがえます。「仲間の僕」という呼ばれ方も、ティキコがどれほど人に仕える者であったのかをうかがわせる表現です。

 ちなみに、コロサイの信徒への手紙を届けたのは、このティキコであったと言われています(コロサイ4:7)。コロサイの手紙の中に出てくる「ラオディキアから回って来る手紙」が、このエフェソの信徒への手紙のことを指しているとすれば、ティキコがそれぞれの書簡を届けたのかもしれません。テモテへの手紙二の4章12節には、パウロがティキコをエフェソに遣わしたことが記されています。もちろん、手紙を届けさせるためであったかどうかはわかりませんが、ティキコがエフェソに遣わされるにふさわしい人物であったことは、ここからもうかがわれます。

 ティキコが派遣される理由は、獄中にいるパウロの様子を知らせるためでしたが、それだけではありません。手紙を受け取った人たちの心を励ますためでもありました。パウロが獄中にいることは、教会の人々にとってとても不安なことであったでしょう。しかし、ティキコを通してパウロの様子を身近に知ることは、どれほど励みとなったことでしょうか。

 手紙を結ぶにあたってパウロは、平和と愛と恵みを祈ります。

 あなたがたに平和がありますように、という挨拶は、今でもユダヤ人たちが使う挨拶の言葉です。ただし、平和がどこから来るのか、という点では、キリスト教の挨拶となっています。つまり、ただ「主の平和」を願うのではなく、父なる神と主イエス・キリストから与えられる「平和」です。

 この手紙の2章でパウロはこう書きました。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。…キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェソ2:14, 17)

 この書簡にとってキリストがもたらす「平和」は決して周辺的な話題の一つではありません。そうではなく、むしろ中心的なテーマとしてとらえられています。そうであるからこそ、「神の平和があなたがたにあるように」とだけ言わないで、平和の源泉が主イエス・キリストにもあることを思い起こさせています。

 さらに、パウロは平和に加えて、「愛」が与えられるようにとも祈っています。それも、「信仰を伴った愛」という他には見られない珍しい表現を使っています。この言葉の正確な意味は分かりませんが、おそらく、神の愛は信仰をもってしか受け取ることができないので、そう表現したのかもしれません。そもそも、愛は信じるよりほかに受け取る方法がありません。

 あるいは、ここで「信仰」と訳される言葉は、「信頼」とか「誠実」とも訳すことができる言葉ですから、ここでは「わたしたちの」信仰が伴う愛が問題なのではなく、「神の」誠実さを伴う愛が主題なのかもしれません。

 最後にパウロは「恵みが、すべての人と共にあるように」と祈って手紙を閉じます。

 「すべての人」とは言いますが、「すべての人」に修飾語が伴って、文字通りのすべての人ではないことがわかります。主イエス・キリストを愛するすべての人たちがパウロの念頭にあります。この手紙はキリストを信じる人たちへ宛てられた手紙ですから、それも当然です。

 ギリシア語で書かれたこの手紙の文字通りの最後の言葉は「エン アフタルシア」という言葉で終わっています。文字通り訳せば、「不滅性において」ということですが、この滅びることがない、朽ち果てることがないという言葉を、どこにかけて翻訳するかという問題があります。

 新共同訳聖書では、この言葉を「キリストを愛する者たちの愛が永遠に変わることがない」という意味にとらえて翻訳しています。しかし、キリストにかかる言葉と理解すれば、「朽ち果てることのないキリストを愛する者たち」と翻訳することも可能です。どちらも翻訳可能ですが、わたしたちの愛は神の愛と比べれば、変化しやすいものです。そうであるとすると、この言葉は変わることのないキリストにかけて理解した方がよいと思われます。

 いずれにしても、恵みが伴うようにと願う手紙の結び方は、この手紙にとってとても大切なことです。なぜなら、2章でパウロは、救いが恵みによるものであることを強調しました。2章8節にはこう記されています。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」

 この神の救いの恵みは、信仰を持った時にだけ働く恵みではありません。一生涯を通して働き続ける恵みです。神の恵みが生涯を通して共にあること、そして、その恵みに応えて生きることこそ、わたしたちの信仰生活にとってとても大切なことなのです。

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