メッセージ: 子供たちとその父親へ(エフェソ6:1-4)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
文明の進歩とともに、子供たちを取り巻く状況は、明らかに良い方に向かっている、という言葉に対して、率直にその通りだと言えるでしょうか。
確かに、150年前の日本と今を比べてみれば、格段の差があるかもしれません。今では子供に教育を受けさせることに対して、強い抵抗を示すという家庭はほとんど見かけることがありません。しかし、義務教育が始まったころの日本では、子供は重要な労働力でしたから、学校に子供を取られることに抵抗を示す家庭も多くありました。
しかし、その一方で、子供が虐待を受けて亡くなる悲しいニュースは、今でも後を絶ちません。もちろん、それはごく少数の家庭に起こっていることかもしれません。けれどもニュースにはならないまでも、親の都合で人間らしい扱いを受けていない子供たちは、案外身近にいます。子供も人格を持った一人の人間という意識は、ときどき薄れているように感じることがあります。
今日取り上げようとしている聖書の個所には、親子の問題が取り上げられています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
先週に引き続き、パウロは人間関係の正しい在り方について記しています。前回は夫婦の在り方についてでしたが、今回は親子の関係を取り上げます。
前回も触れましたが、手紙の大きな流れからいえば、キリストによって救われ、新しい人を着た新しい人の生活についてパウロは様々な角度から語ってきました。ここでも信仰者としての家庭が前提となっています。キリストを信じる子供たちとキリストを信じる親たちの関係です。
これも前回触れたことですが、パウロは様々な人間関係を取り上げるに先立って、どんな関係であっても「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5:21)ということが基本にありました。これは親子の関係であっても例外ではありません。キリストに対する畏れがないところでは、一方が他方に対して支配的になったり、また、他方はそれに対して不従順な態度で応じるというちぐはぐな関係が生まれます。それは自分本位にしか相手との関係を築くことができない人間関係です。見上げるべきお方がその家庭の中にいらっしゃるのか、ということは、信仰者の家庭には重要なことです。
ところで、親子の関係というのは、生きている限り一生続くものです。80歳の親と60歳の子供という関係も、立派な親子の関係です。もっとも、わたしたちが、親子というときにイメージするのは、結婚前の子供たちとその親ではないかと思われます。あるいは結婚して家庭を持たなくても、親の経済的支援を受けずに暮らせるようになれば、子供扱いをしないというのは、常識的なセンスかもしれません。
果たして、パウロがどういう親子を想定してこれを書いているのかは断定できませんが、たとえば、この個所に出てくる「しつける」とか「育てる」という言葉からイメージされるのは、少なくとも未成年の子供であるように思われます。ユダヤ人たちは、男子が13歳、女子が12歳で成人すると言われていますから、その年代までの子供たちとその親を想定しているのかもしれません。
しかし、この手紙を受け取った人たちは、広い意味では、ローマ社会の影響を強く受けている人たちです。そうだとすると、父親の権威はかなり強大なものでした。父親にとって子供は、父親の所有物でしたし、その関係は一生続くほどに強大なものでした。そういう常識がまかり通っていた社会に生きる信仰者たちには、あらゆる世代の子、あらゆる世代の親に対する言葉としてパウロの勧めの言葉を受け止めたかもしれません。
さて、前回、夫婦の関係を取り上げるときにもそうでしたが、パウロは弱い方の立場にある者たちに、先に声をかけています。しかし、前回と違うのは、弱い立場に立つ子供たちに対する言葉が、強い立場に立つ父親に対する言葉の3倍近い長さに及んでいることです。強い立場に立つ者に対してこそ、より多く語られるべきであるはずですが、ここではそうではありません。なぜ、子供に対してより多くの言葉を使っているのでしょうか。
詳しく見てみると、勧めの言葉としては、子供たちには「両親に従いなさい」ということだけが求められているのに対して、父親に対しては「子供を怒らせてはならないこと」と「主のしつけとさとしによって子供たちを育てること」の二つが求められています。ですから、子供たちに対してたくさんのことが求められているのではありません。
子供たちに両親に従うように命じる根拠として、パウロは十戒の第五戒を引用しています。十戒はイエス・キリストが要約されたように、神への愛と人への愛を教えるものです。形だけ親の言いなりになることが求められているのではありません。どのように両親を愛するか、そこが根本的に問われている事柄です。両親は立派な尊敬に値する両親とは限りません。欠点だらけの両親であることもあります。それでも、愛を貫くことは、子供にとってはハードルが高すぎるかも知れません。そうであればこそ、第五戒に記された約束の言葉をあえて引用しているのでしょう。それは、「幸福になり、地上で長く生きる」という約束の言葉です。約束というのは信じるものです。この約束について神への信頼が子供たちには求められているということです。
それに対して、まず父親に求められていることは、「子供を怒らせない」ということです。そもそも、母親にではなく、父親にそのことが求められているのは、その時代の父親像が背景にあるのかもしれません。母親なら、子供を怒らせても良いということではありません。
同じことを勧めているコロサイの信徒への手紙3章21節には「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」と勧められています。人が怒りに走る前に、いらだつ心が起こります。苛立つ心が積もり積もって怒りとなって爆発します。コロサイの信徒への手紙では、怒りに先立つ苛立ちさえ、子供たちの心に起こしてはならないと父親たちに命じています。
さらにコロサイの信徒へ宛てた手紙では、苛立ちの向かう方向が、怒りではなく、失望に向かうことも想定しています。子供に対する愛のない小言が、子供をいらだたせ、ひいては心をくじいて、将来に対する無気力感さえ生み出すことをパウロは指摘しています。
では、どのように子供と向き合うべきなのでしょうか。パウロは「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と勧めます。この言葉は、ある意味、具体性のない言い方です。主がしつけ諭されるとは、いったいどういうことなのでしょう。その答えは、一人一人が聖書に向き合い、自分自身が聖書から教えられるのでなければ、得られない事柄です。
子供たちに、自分の言うことに聞き従え、と命じる前に、自分が主の御心に聞き従っているかが常に問われているということです。主の御心に聞き従えない自分を見出した時に、主の前にへりくだって悔い改め、主からの赦しを真剣に請うているのか、そして、自分自身が主の赦しの言葉を自分のものとし、喜びの中で生きているかということです。その体験こそが、子供たちに向き合う姿勢を大きく変えていくのです。