メッセージ: 新しい人として歩む(エフェソ4:25-32)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
旧約聖書にはモーセの十戒と呼ばれる有名な掟が記されています。具体的には出エジプト記20章2節から17節に記されている言葉がそれです。特に後半に記されている掟は、隣人との関係に関わる掟です。
それらの掟は、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」など、「〜してはならない」という言葉が続きます。
しかし、十戒が求めていることは、何かをしないことだけではありません。主イエス・キリストが律法の全体を要約しておられるように、十戒は「神への愛」と「隣人への愛」へと人を向かわせるものです。愛は、ただ何かをしないことではありません。むしろ相手への積極的な関心から相手へと向かうものです。
パウロが勧める新しい人を身に着けた生き方も、ただ、何かをしない、何かを差し控えるというだけではありません。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 4章25節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
前回の学びでは、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けるようにと学びました。その具体的な生き方の勧めが、今日取り上げた個所に記されています。
ここには、古い人が犯しがちな悪い行いを捨て去ることだけが求められているのではありません、新しい人を身に着けた、新しい生き方が勧められています。もちろん、そこに記されている事柄は、今まで聞いたこともないような事柄ではありません。当たり前のことではありますが、しかし、簡単に見落とされてしまうような事柄です。
要約すれば、どの事柄も、「自分を愛するように自分の隣人を愛せよ」という言葉に要約されます。
それでは、一つ一つ見ていくことにします。
最初に取り上げられるのは、「偽り」の問題です。
「偽り」には様々なものが含まれます。軽はずみの嘘から、裁判での偽証、計りや表示をごまかす偽りまで、世の中にはいろいろな偽りがあります。そうした偽りを捨てるようにと命じられています。
もちろん、捨てればよいに決まっていることは、だれの目にも明らかです。しかし、パウロはただ偽りを捨てるのではなくて、もっと積極的に隣人に対して真実を語るようにと勧めています。その理由を「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と語っています。
嘘や偽りが生まれる背景には、相手との関係が希薄であるということがあると思います。相手と会うのも一度限りだという関係であるなら、嘘に対する抵抗も少なくなります。例えば、リピーターの多いお店では、信用を第一とするのに対して、売り逃げの商売ではまがい物でも平気で売ってしまいます。
「互いが体の一部である」という認識は、とても親密な関係です。パウロが念頭に置いているのは、キリストの体としての教会のことでしょう。そのような関係の中で積極的に守られるべきことは、互いの信頼であり、真実な関係です。
次にパウロが勧めることは、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」ということです。この言葉は、厳密には「怒れ、そして、罪を犯すな」という言葉です。怒ることを全面否定しているのではなく、怒ることで、罪に発展することがないようにとの勧めの言葉です。
怒りにはいろいろな種類があります。感情的な怒りから、社会の不正や悪に対する義憤まで、しかし、どの怒りも一歩間違えば、罪の機会となりえます。創世記に登場するカインは、弟への妬みから、怒りを覚え、ついに弟を殺してしまいます(創世記4:5-8)。モーセでさえ、仲間が虐待されるのを見かねて、正義感からエジプト人を殺めてしまいました(出エジプト2:11-12)。
怒りはどんなに正当なものであったとしても、サタンに簡単に機会を与えてしまう危険があります。そうであればこそ、怒ることがあっても、一日が怒りの思いで終わってはなりません。
新しい人の生き方として、三番目にパウロが勧めることは、「盗みを働いていた者」への勧めです。正確には「盗みを働いていた者」ではなく「盗みを働いている者」への勧めです。もちろん、信徒の中に泥棒がいるということではないでしょう。
相手の貴重な時間を無駄に奪うことも立派な盗みです。あるいは、会社や学校の電気を個人的な利用のために無断で使うことも立派な盗みです。例を挙げればきりがありません。しかし、それらのことさえしないように気を付けるのが、新しい人の生き方ではありません。
「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるように」というのが、パウロの勧めです。「盗んではならない」という十戒の戒めを、愛の実践にどのように反映させるのか、それを考えながら生きることが求められています。
四番目の勧めは、悪い言葉に関する勧めです。ここでも、ただ、悪い言葉を口にしないことが求められているのではありません。むしろ、その人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語るようにと勧められています。
言葉は人を傷つけもすれば、人を元気づけることもします。そうであればこそ、その人を建て上げることにどう言葉を用いるのかが問われています。
最後に、30節から32節にかけて記されている勧めの言葉は、救われた私たちが何者なのか、という観点に立った勧めの言葉です。
1章13節に記されているとおり、信じて救いに入れられた者たちには「聖霊の証印」が押されています。パウロはこの手紙を、すでに聖霊をいただいている人たちに向けて記しています。今まで述べてきたことを完璧に守ることはできないかもしれません。そうであればこそ、聖霊の恵みに謙虚に信頼して歩むこと、そのことが大切です。
また、救いの根本には、キリストによる罪の赦しがあります。キリストによって罪の赦しをいただいているのですから、憐みの心を忘れてはなりません。キリストがわたしたちを扱ってくださったとおりに、隣人に対して愛をもって接することが求められているのです。