聖書を開こう 2020年8月20日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  一体性の中の多様性(エフェソ4:7-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会は、しばしばキリストの体と呼ばれています。人間の体が一つであるのと同じように、キリストの体である教会も一つであることがイメージされています。

 それと同時に、体にはいくつもの部分があるように、教会も色々な人たちの賜物によって成り立っています。色々な人たちが集まって、まるでひとつの体のように統一されている、というのが教会の姿です。もちろん、地上にある教会の現実の姿は、分裂があったり争いがあったりすることも否めません。しかし、現実がそうであったとしても、それが教会の目指す姿ではないことは、聖書から明らかです。

 きょう取り上げようとしている個所には、教会の一致の中にある多様性、多様性の中にある一致の問題が取り上げられています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 4章7節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 前回の個所では、神から招かれた一人一人が、その招きにふさわしく歩むことが大切であることを学びました。特にユダヤ人と異邦人という区別をなくし、両者が等しく救いにあずかることをご計画された神は、教会が一つであることを望まれました。何よりも、一致の究極的な基礎は全宇宙を支配しておられるお方が、唯一の神であられることに置かれています。

 けれども、教会が一つであるということは、多様性を認めない、画一化された集団という意味ではありません。金太郎飴のように、どこを切っても同じ顔が出てくるというのとは違います。

 パウロは、教会の一致性、統一性を取り上げた直後に、「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と語ります(エフェソ4:7)。

 一人一人に与えられているのは、同じ量の同じ賜物ではありません。キリストの賜物のはかりに従って、計り与えられる様々な賜物です。具体的には11節以下に出てくるように、使徒の賜物であったり、預言者の賜物であったり、福音宣教者の賜物であったり、牧師・教師といった様々な賜物です。もちろん、賜物の種類はここに記されているような、神の御言葉を取り次いだり、教えたりする賜物ばかりではありません。パウロは他の個所で、たくさんの種類の賜物のリストを挙げています。例えばコリントの信徒への手紙一の12章28節以下には、教える賜物のほかに、癒したり、援助をしたり、管理をしたりする賜物も挙げています。違っているからこそ互いに補い合うことができます。

 パウロは、同じコリントの信徒への手紙一の12章で、教会を体に例えて、「体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」と問うています。互いに異なった賜物で補い合うからこそ、統一のとれたからだとして機能します。

 教会の一致や統一性は、みんなが同じになることでは決してありません。また違ったものを排除することでもありません。賜物の多様性の中にこそ本当の一致があるのです。

 地上にやって来られたイエス・キリストは、十字架と復活を通して再び天にお帰りになりました。その時、信じる者一人一人の上に聖霊が降ることを約束してくださいました。その出来事はペンテコステの日に実現しました。それ以来、聖霊の賜物は信じる者一人一人の上に豊かに注がれています。

 パウロは詩編の言葉を引用して、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われてきた言葉が、キリストによって実現したのだ、と語っています。

 ところで、パウロは数ある賜物の中で、特に神の言葉を取り次いだり、教えたりする賜物を取り上げています。それは、続く12節に記されているとおり、これら神の言葉を教える賜物を通して、他の様々な賜物が互いに仕え合い、キリストの体を造り上げていくようにと整えられていくからです。

 多様性が多様性のままで終わってしまえば、ただのバラバラの寄せ集めにすぎません。キリストはそれらを結び合わせて、整えていく働きをする賜物もまたお与えくださっています。一致した信仰と知識を与えられ、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで、成長し続けていきます。

 それは、信仰者個々人が成熟な人間へと成長するということもありますが、ここでは、特に教会を一人の人間の体に例えて、ともに頭であるキリストへと向かって成長していくことがパウロの念頭にあります。教会が多様性の中にあってもひとつとなって、成熟した大人へと向かう成長がなければ、騙されやすい子供のように簡単にもてあそばれてしまいます。

 そのとき、重要な役割を果たすのが、「愛」です。15節から16節にかけて、パウロは二度「愛」という言葉を使っています。「愛に根差し」「愛によって」、多様性の中にある一致と成長は実現します。神の子キリストについてのどんな知識も、また、語られる言葉がどんなに真理に満ちていたとしても、そこに「愛がなければ、無に等しい」、とパウロは、コリントの信徒への手紙一の13章で語っています(1コリント13:2)。

 そうであればこそ、パウロはエフェソの信徒へ宛てて手紙を書くときに、4章の勧めに入る前に、こう祈っていました。

 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:17)

 一致と多様性は、一見、相反することのように見えるかもしれません。多様な賜物を結びつけて、ひとつの体のように教会が成長していくには、信仰と知識の一致が大切であることは言うまでもありません。しかし、そこに愛が加わるときに、豊かに成長し、造り上げられていくのです。

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