聖書を開こう 2020年7月2日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  選民と異邦人の区別(エフェソ2:11-12)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の中で「異邦人」というと、ユダヤ民族以外の人たちを指す言葉です。しかし、それはただ単に「外国人」というのとは、ちょっと違ったニュアンスを含んでいます。

 ユダヤ人が神から選ばれた選民であるのに対して、異邦人はまことの神を知らない、あるいはまことの神に敵対しているという軽蔑的な見方が「異邦人」という言葉にはあります。

 しかし、旧約聖書の中には、異邦人の救いに関して、必ずしも否定的ではありません。たとえば、旧約聖書のルツ記に登場するルツはモアブの女でしたが、まことの神を信じて従う女性でした。このルツの子孫からダビデ王やイエス・キリストが生まれました。

 旧約聖書イザヤ書の56章には異邦人の救いが約束されています。そこには選民と異邦人の区別がなくなる時代が来ることが預言されています。

 きょう取り上げようとしている個所にも、異邦人についての辛辣な描写が出てきます。キリスト教会が生まれたばかりのころ、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの問題は、克服されるべき大きな課題でした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章11節と12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。

 今、お読みした個所は、キリストによるユダヤ人と異邦人の和解の問題を取り上げた個所の出だしの部分です。ここだけを読むと、異邦人に対する差別的な発言のように聞こえてしまいます。しかし、全体の主旨は、キリストにあってユダヤ人と異邦人という区別が撤廃されたということを力強く語っている個所です。

 しかし、そのことを語らなければならないのは、生まれたばかりのキリスト教会の中にも、ユダヤ人と異邦人の問題がまさにあったからです。

 きょう取り上げた個所に記されている異邦人についての記述は、当時のユダヤ人たちが抱いていた異邦人に対する意識です。そして、それはユダヤ人クリスチャンたちにも普通に受け継がれてきた意識でした。

 そして、ここには、この手紙の受取人の大半が異邦人からキリスト教に入ってきた人たちであることが暗示されています。

 では、その当時のユダヤ人にとって、異邦人とはどのような人とみなされていたのでしょうか。最初に挙げられているのが、「割礼のない者」という区別です。異邦人に対するこの言い方は、旧約聖書の中にもしばしば登場します。

 例えば、ゴリアトと闘った少年時代のダビデは、「あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」と異邦人を呼んでいます(サムエル記上17:26)。割礼がないということが、ユダヤ人と異邦人を区別する最大の特徴であるといわんばかりです。

 もちろん、厳密にいえば、割礼のあるなしということだけで言えば、ユダヤ人以外の民族の中にも割礼を施す習慣が全くなかったわけではありません。そういう意味では、割礼のあるなしとユダヤ人と非ユダヤ人の区別は完全に一致するわけではありません。

 けれども、ここで言われている「割礼」には特別な意味が込められています。それは、ユダヤ人たちが割礼を受けるようになった理由と深く関係しています。

 ユダヤ人たちが生まれてくる男の子に割礼を授けるようになったのは、創世記17章に記されている神の命令によるものです。そこにはこう記されています。

 「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(創世記17:10)

 つまり、神の民としての「契約」と深く関係しているということです。様々な民族には様々な割礼の儀式があるかもしれませんが、ユダヤ人にとっての割礼は神との契約のしるしという意味がありました。言い換えれば、異邦人たちにはこの契約のしるしがない、ということこそが、異邦人とユダヤ人を区別する最大のしるしでした。

 ここには、それ以外の異邦人の特徴も列挙されていますが、もとをただせば、神との契約にあずかっていないということから来る特徴です。

 「キリストとかかわりない」というのもその通りです。契約の民からキリストは生まれ、契約の民にキリストは遣わされるからです。「イスラエルの民に属さない」というのもまさにその通りです。神の民であるイスラエルは契約の民だからです。「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きている」という異邦人の描写も、そう言い切れるのは、ユダヤ人には神の契約があるから、という信念があるからです。

 ユダヤ人の目から見た異邦人は、まさにここに描かれる通りの人たちでした。そして、その見方は、ユダヤ人クリスチャンたちにも何の疑問もなく引き継がれていきました。

 では、その当時のユダヤ教には、異邦人の救いは全く考えられていなかったのか、というと必ずしもそうではありませんでした。割礼を受けることで、異邦人もユダヤ教に改宗して救いにあずかる道は開かれていました。

 ですから、生まれたばかりのキリスト教会でもこの考えを引き継いで、洗礼のほかに割礼も必要だとする議論もおこっていました。使徒言行録15章1節にはその当時の様子がこう記されています。

 「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。」

 この割礼の問題は、すぐさまエルサレムで開かれた使徒たちの会議で議論となり、決着がつけられました。それは、異邦人には割礼を求めないという結論でした。

 この決定は今の時代のわたしたちから見れば、たいした決定ではないように見えるかもしれませんが、当時としては、とても重要な決断でした。そして、その決断が教会の中に定着するには少なからず時間が必要でした。現にキリストを信じて救いにあずかる異邦人が現れているという事実は否定しがたいとしても、それを信仰的にどう説明して受けいれるのか、その点こそ、使徒パウロが苦労した点でした。

 割礼の有無の問題は現代の教会では過去の話かもしれません。しかし、教会にはそれとは異なる区別の問題がたえず問われてきています。たとえば様々な障害のために聖書を読んで理解できない人や、自分で信仰を表明できない人は救いにあずかれないのでしょうか。そういう問いに対する答えを教会は持っているでしょうか。また、その人たちを受けいれるプログラムを教会は持っているでしょうか。教会は教会の中に違った意味での異邦人を作ってはいないでしょうか。そのことが問われているように思います。

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