聖書を開こう 2020年6月25日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  恵みによる救い〜死から命へ(エフェソ2:1-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 16世紀に起こった宗教改革の有名なモットーに「信仰によってのみ」「恵みによってのみ」という言葉があります。宗教改革以降の福音主義教会にとってはなじみ深い言葉であると同時に、譲ることのできないとても重要な教えです。

 けれども、どんな宗教も突き詰めれば、これと同様の教えに到達するのか、というと必ずしもそうではありません。むしろ、「信仰プラス何か」「恵みプラス何か」という「プラス何か」の部分がついて回ります。

 きょう取り上げようとしている箇所には、この宗教改革のモットーの基となる教えが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、…あなたがたの救われたのは恵みによるのです…キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 今日取り上げた個所の内容を三つに分けるとすれば、第一に救われる前の人の状態について。第二に、どのように神は人を救いに入れられたのか。第三に、救われた者の生き方について記されています。

 まず、救われる前の人の状態は、どんな状態だったのでしょう。一番に「あなたがたは死んでいた」と表現されています。もちろん、「肉体の死」という文字通りの意味ではなく、「過ちと罪のために死んでいた」という比ゆ的な意味でです。ここで「死んでいる」という言葉をあえて使っていることは見逃すことはできません。
「弱っている」とか「病気になっている」というのは、明らかに違う状態です。

 弱っているだけなら、自分で何とか元気を取り戻せるかも知れません。病気で苦しんでいるというなら、自分の力で何とか元通りになる可能性もあります。それに、弱かったり病気だからと言って、その人の考えや行動までが病的だとは言えません。体が弱くても、強い意志で生きることもできます。

 しかし、「死んでいる」というのは、それとはまったく違う状態を表しています。自分では何もできない状態、望みを置こうにも置けない状態、さらには、正しい考えや正しい行動すら生み出すこともできない状態です。

 過ちと罪を犯すしかできない生き方を指して、パウロは「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と表現しています。それは、「あなたがた異邦人」だけの問題ではありません。パウロを含めたユダヤ人たちも例外ではありませんでした。ですから、パウロはすかさず「わたしたちも」と言っています。

 つまるところ、それは神の御心に従って生きる生き方とは正反対の生き方です。まことの神ならぬものを神とし、自分が欲することをほしいままにしているに過ぎない生き方です。その行きつく先は、神の怒り以外の何ものでもありません。

 もちろん、パウロがここで述べていることは、一部の特殊な人間の話ではありません。神の目から見て、誰も神の義に合致する生き方ができない以上、皆死んでいるのと同じです。

 ここまで聞くと、人間には絶望以外、何もないようにしか思えません。しかし、パウロはそれとは対照的に、神の救いの業を描きます。

 それが二番目の内容である、どのようにして人は救われるのか、という問題です。二番目の内容と言いましたが、むしろ1節から7節までの中心は、「どのように救われるのか」という事の方が重要な内容です。そして、「どのように救われるのか」ということを正しく理解するためには、救われる前の人間がどのような状態にいるのか、ということを描いた1節から3節までを正しく理解する必要があるのです。

 死んでいる、何もできないからこそ、人間の救いには神の力が大きく働くのです。

 救いの原動力は神の憐みと愛にあります。憐み豊かな神が、まず死んだ状態の人間に愛を示してくださいました。死んだ人間の側からは何も起こすことはできません。神の憐みと愛が先行しています。

 この神の愛によって、自分の過ちと罪によって死んでいる人間が、キリストと共に生かされ、キリストと共に天の王座に着座させられるのです。

 それは、5節でパウロが言っているように、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。

 この「恵み」という重要なテーマは、8節で再び取り上げられています。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」

 神の前に死んでいたのですから、自分の力によって救われたのではないことは明らかです。ただただ恵みによって救われたとしか言いようがありません。

 そう信じて救われたのですから、それは信仰によって救われたということもできます。しかし、パウロは信仰すらも「神の賜物」であると述べています。

 ここには徹底的に人間の力が排除されています。そもそも、人間にその力があるのであれば、とっくに自分で救いの道を切り開いていたことでしょう。しかし、現実はそうではありませんでした。罪に束縛され、罪のうちに死んでいたのです。

 最後に、この恵みによって救われた者の生きる道が記されています。それは、再び罪の道に逆戻りするのではなく、善い業を行って歩む生き方です。

 善行を積み重ねることが救いをもたらすのではなく、むしろ死んだ人間には善い行いさえする力がありません。そうではなく、神の憐みによって新しい命に生かされるからこそ、神の御心を求めて生きるようになるのです。

 そう心から信じて生きる生き方こそ、福音に生きる生き方なのです。

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