聖書を開こう 2020年6月18日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  パウロの祈り(エフェソ1:15-23)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の中にはたくさんの祈りの言葉が記されています。それぞれが直面する状況の中で捧げられた具体的な祈りの言葉です。先人たちの祈りの言葉は、今を生きる私たちにとっても、大きな力となります。

 今日取り上げようとしている個所にも、パウロの祈りの言葉が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章15節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 今お読みした個所には、パウロの執成しの祈りの言葉が記されていました。

 もっとも、文法的なことを言えば、中心の文章は16節の「絶えず感謝しています」という言葉です。あくまでも文法的な話ですが、ここでは「絶えず感謝をしている」ということが最も中心の文章です。ところが、17節以下のところで、いつしか感謝から祈りの言葉へと内容が変わっています。

 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与えてくださるように」

 「知恵」というのは、この手紙の中では、神の救いの計画に対する知識と深い関わりを持つ言葉です。この知恵によって、「神の御旨の奥義」すなわち、秘められた救いのご計画を理解するようになります。ここでも、神を知るという点で、「知恵の霊」が与えられることを願っています。

 「啓示」という言葉も同じように、この手紙の中では、「神の御旨の奥義」との関連で用いられる言葉です。神の秘められた救いの計画は、啓示によってのみ明らかにされるのです。3章3節のところで、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」と書いている通りです。

 従って、「知恵と啓示の霊」を願い求めるのは、神を深く知るために他なりません。神から招かれた者たちが、正しく神を知り、神と共に歩むことをパウロは願っています。

 さて、「知恵と啓示の霊」が与えられるということは、言い換えれば、18節にあるように、「心の目を開」かれることです。文字通り翻訳すれば「心の目が照らされる」ことです。

 光に照らされて明らかになる、という表現は、この手紙にとってとても大切な考え方を示しています。救いに与り知らない異邦人の歩みを、5章8節で、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と、救われた状態について語っています。心の目が光に照らされるということは、もはや暗い知性のために神を正しく理解できない異邦人の歩みから解放されて、神を深く知る歩みに生かされることなのです。パウロは、わたしたち信仰者が、再び知性の暗さによってさまよい歩くのではなく、光に照らされた心の目を持って神を見上げて歩むことを願っているのです。

 では、照らされた心の目で、何をしっかり見つめるのでしょうか。パウロは三つのことを挙げています。

 一つは、キリスト教の希望について、第二に、神の国の栄光の豊かさについて、そして、第三に、神の力の絶大さについてです。

 ここでは、特に神の力の絶大さついて考えてみたいと思います。

 19節は「力」に関連した言葉が、四つも重なっています。日本語にはどうしても訳すことはできないくらい、まどろっこしい表現です。しかし、こうでもしない限り、神の偉大な力は表現しきれないのでしょう。その上、さらに、20節のところで、その「力」についての説明が展開されます。

 パウロは、知恵と啓示の霊によって光を与えられた心の目を見開いて、神の力の大きさを理解するようにと願っています。

 そもそも、神は、3章20節で言われているように、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です。

 わたしたちには捉えきれない、思いをはるかに越えた神の力を理解しようとするのですから、これは並み大抵のことではありません。理解や思いを越えているのですから、理解できないのも当然かも知れません。しかし、パウロは、ここで、知恵と啓示の霊に助けられながら、信徒一人一人が神の力を理解できるようにと祈っています。

 このことは、今のわたしたちの教会にとっても非常に大切な点です。特に、人間的な弱さにだけ目が向かうわたしたちが、ぜひとも祈り求めて行きたい点です。

 20節のところで、パウロは「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」と記しています。神の力の絶大さはイエス・キリストの復活において、最も鮮やかに示されます。

 パウロ自身、コリントの信徒への手紙二の中で、アジアで遭った患難についてこう語っています。

 「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(2コリント1:8以下)

 パウロの宣教を支えたものも、この神の偉大な力に対する信頼でした。

 きょう、この番組を聞いてくださっているお一人おひとりに、神が知恵と啓示との霊を豊かにお与えくださって、神の偉大な力を仰ぎ見させてくださいますようにと、心からお祈りいたします。

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