メッセージ: ほむべきかな父なる神(エフェソ1:3-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「生まれる前から選ばれている」とか「自分があずかり知らないうちに自分の歩みが定められている」と聞くと、たいていの場合、悪いイメージを抱いてしまうと思います。「自分の人生は自分の思い通り決めたい」と誰もがそう思うのは当然でしょう。
まして、今の人生が自分の満足いく人生でなければ、そういう人生を送るように選ばれているとか、定められていると聞いたら、そんな運命や宿命はまっぴらだと思うに違いありません。わたしも率直にそう思います。
それにもかかわらず、聖書には「選び」や「前もって予定されている」という用語があちこちに使われています。今日取り上げる箇所にもその二つの用語が登場します。
「運命」や「宿命」という意味でこれらの用語が使われていると理解するならば、聖書の豊かなメッセージを聞き逃してしまいます。この用語は私たちが日常で使う以上の豊かな恵みを表現する言葉です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章3節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
エフェソの信徒への手紙は、冒頭の挨拶に続いて、神をほめたたえる言葉が続きます。パウロが書いた他の手紙は、たいてい挨拶の言葉に続いて、宛先人のことを具体的に思い起こしながら、神への感謝の言葉が続きます。エフェソの手紙のように、神への賛美が続く手紙は、コリントの信徒への第二の手紙がよく似た構造をしています。しかし。コリントの信徒へ宛てた第二の手紙は、パウロが個人的に体験した事柄に基づいて神を賛美しているのに対して、エフェソの信徒への手紙の冒頭は、すべてのクリスチャンが与っている恵みについて、神をほめたたえています。そこがこの手紙の大きな特色です。特定の教会、特定の個人が想定されているのではなく、すべての信徒に当てはまる事柄について神の御名がほめたたえられています。
この神への賛美は14節まで続きますが、よく見ると。父、子、聖霊の三位一体の神への賛美となっています。きょうは父なる神がわたしたちの救いのためになしてくださった恵みの業について、詳しく見ていきたいと思います。
3節で、父なる神は、「キリストにおいてわたしたちを天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくだるお方」と描かれます。父なる神は、単にわたしたちを「祝福してくださるお方」ではありません。「天上の」「霊的な」「あらゆる」祝福をもって、わたしたちを祝福してくださるお方です。
それはこの地上の祝福を超えた「天上の」祝福です。天に属する、過ぎ去ることのない祝福です。またそれは肉体的物質的な祝福ではなく。霊的な祝福です。しかも、その祝福は1つではなく、「あらゆる」祝福です。そういう祝福をお与えくださる父なる神をパウロはほめたたえます。
では、その祝福は、具体的にどういう祝福なのでしょうか。先ほども冒頭で述べた二つの言葉が、その祝福を具体的に表現しています。
その一つは、「わたしたちを選んでくださった」ということです。しかも、選びについて述べるとき、パウロは「キリストにおいて」「天地創造の前に」「わたしたちを愛して」という三つの重要な要素を語ります。
「キリストにおいて」という言葉は、救いへの選びについて語るとき、とても重要な言葉です。キリストを離れて、わたしたちの救いはありません。救いの全工程、全課程において、クリスチャンはキリストと結びあわされています。選びにおいても、キリストと結ばれています。
「天地創造の前に」という要素も重要です。これば選びの性質を如実に方ある言葉です。人間がものを選ぶときは、選ぶ対象を吟味するのが普通です。しかし、神の選びは違います。まだ何もないうちから、選びが先行しているのです。しかし、それは運命や宿命とはまったく違う発想です。それは、神の選びが神の恵みによることを表す表現です。神の選びは何かの条件によるのではありません。「天地創造の前に」とは、まったくの恵みによることを表現する言葉です。
また、条件ではなく恵みによるのですから、救いの確かさをも意味しています。条件が変われば救いも変わってしまうような不確かなものではありません。そのような選びです。神の深い知恵と恵みがかかわっているえらびです。
「わたしたちを愛して」という要素は、何よりも聖書が言う選びが、「運命」や「宿命」とは異なるものであることを示しています。「運命」や「宿命」には愛が挟まる余地もありません。しかし、神の選びは神の愛から出るものです。
さて、あらゆる祝福について、もう一つの重要な表現は「前もって定める」という言葉です。それ自体は、さきほど述べた選びについての言葉と重なる部分があります。ことが起こるのに先立って定めるのですから、人間がそこに介入することはできません。それは、言い換えれば、まったくの神の深い知恵と恵みに依存しているということです。
ここで重要なのは何を前もって定められたのか、その内容です。それは、神の子に定められた、ということです。ここで使われる言葉は、「養子」という言葉です。「養子」問う言葉は、それがどう行われるかというその社会や文化と密接に関わっているため、「養子」という言葉にマイナスなイメージを抱く人もいるかもしれません。しかし、新約聖書が書かれた世界では、「養子」という言葉は決して悪いイメージではありませんでした。むしろ養子として迎えられることは栄誉なことでした。
神の養子てしてあらかじめ定めてくださったこと、そのことがあらゆる霊的な祝福の中で特筆すべきことなのです。そして、ここでもまた、「キリスト」との関係が述べられています。
わたしたちがお神の子とされるのは、まことの神の子キリストを通してです。キリストの救いの御業を通して、神の子として迎えられる恵みにあずからせていただいているのです。
そういう恵みと祝福を惜しげもなくお与えくださる父なる神こそ、賛美と誉を受けるにふさわしいお方です。与えられた救いを思い返すほどに、賛美へと導かれていきます。6節で述べられているように、まさに、この輝かしい神の恵みをたたえるようにと、神はわたしたちを選んでくださっているのです。