メッセージ: エフェソにいる信徒たち(エフェソ1:1-2)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうから「エフェソの信徒への手紙」の学びに入ります。
新約聖書に収録されている、パウロが書いたとされる手紙は全部で13通あります。その中で特に四大書簡と呼ばれているのは、ローマの信徒への手紙、それから、コリントの信徒へ宛てた2通の手紙、そしてガラテヤの信徒への手紙の4通です。
なんだ、聖書に収められているパウロの手紙を、頭から順番に四つ並べただけじゃないか、とそう思われるかもしれません。確かにその通りです。しかし、誰がなんと言おうとも、この四つの手紙は分量的にも内容的にもパウロが書いた手紙の中で重要な手紙と言われています。
さて、新約聖書に収められているパウロの手紙の順番を、いつだれがこの順番と決めたのかわかりませんが、もし、重要だと思う順番に並んでいるのだとすれば、エフェソの手紙は四大書簡の次に置かれていますから、五番目に重要な書簡と評価されていたといえるかもしれません。
果たして、どんな点で、この書簡が私たちの信仰生活にとって、重要な指針を与えてくれるのか、きょうから少しずつ学んでいきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章1節〜2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
きょうから取り上げるこの手紙は、古くから「エフェソの信徒への手紙」として知られてきました。パウロの書いた手紙のほとんどが、「〜の信徒への手紙」と呼ばれる理由は、手紙の冒頭部分に、手紙の宛先がそう書いてあるからです。
もちろん、現存するこの手紙の写本の、圧倒的多数は、エフェソにいる信徒へ宛てた手紙である、とそう記されています。
けれども、いくつかの古い写本には、この手紙の宛先が記されていません。
圧倒尾的多数の写本が手紙の宛先が「エフェソ」であることを記しているのですから、多数決で「エフェソ」が手紙の宛先だと決めてしまいたいところです。けれども数が多ければ、正しいとは限りません。間違った写本をいくらたくさんコピーしても、間違いは間違いです。
では、より古い写本が言っていることの方が、本来の手紙の姿を伝えているといえるのでしょうか。一般的には古い写本の方が、新しい写本よりも価値があると考えられます。けれども、写本の古さだけでどっちがオリジナルの本文であるかを決めることはできません。
もしかりに、宛先の地名が書いてある方がオリジナルであるとするなら、もちろん、ほかの手紙が皆、宛先の地名が記されているのですから、そう仮定するのは当然です。もし、宛先の地名が書かれている写本がもともとの手紙の姿だとすると、いくつかの古い写本は、なぜ、宛先の地名が抜け落ちているのでしょうか。
その場合考えられる可能性は二つです。ひとつはうっかりミスで書き落してしまったというケースです。しかし、宛先というのは手紙にとってとても重要な部分です。そんな大切なところを、よりによって古い時代に手紙を書き写した人たちが、そろいもそろって間違うでしょうか。うっかりミスで地名が抜け落ちているとは考えられません。
もう一つの可能性は、意図的に消し去ったというものです。けれども、「エフェソ」と書かれていたものを意図的に消さなければならない理由は、ちょっと考えられません。
そうであるとすると、むしろ、最初から、どこの信徒に宛てた手紙か記されていなかったのではないかと考える方が説得力があるように思われます。地名が書かれていない写本が正しいとすれば、なぜ、それよりのちの時代の写本に「エフェソ」と記した写本が多く出回ったのか、簡単に説明がつきます。それは、だれもが宛先の地名がない手紙などありえないと考えてしまうからです。つまり、そこに何かが入っていたに違いないと、善意で考えてしまうからこそ、ありえそうな地名を入れてしまったのだと考えられます。
もちろん、その場合、エフェソはパウロが2年以上も腰を据えて伝道した地ですから、候補としてあげたくなる地名です(使徒言行録19:1-10)。
しかし、最初から宛先の地名がなかったと考える理由はそればかりではありません。この手紙は、ほとんど個人的な名前が出てこない手紙としても有名です。パウロは確かにエフェソで長い間伝道しました。もし、ほんとうにエフェソの信徒へ当てて書いた手紙であれば、宛先人もパウロ一人ではなく一緒にいたテモテの名前が出てきてもよさそうです。結びの挨拶の部分にもエフェソの長老たちの名前が挙がってもよさそうです。
では、最初から宛先の地名がなかったとすると、それはどういうことなのでしょうか。
実は、エフェソの信徒へ手紙と内容的によく似た手紙にコロサイの信徒へ宛てた手紙があります。その手紙の4章16節にこう記されています。
「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。」
つまり、回覧されるために書かれた手紙があったということが、この個所から読み取ることができます。特定の教会にではなく、いくつかの群れのために書かれたとすれば、最初から宛先がないとしても不思議ではありません。
この手紙はエフェソの信徒が読んでも、ラオデキアの教会の人たちが読んでも良いように、最初からそのように書かれていたということです。
そのことは、今、この手紙を手にしているわたしたちにも当てはめることができます。特定の教会を意識して書かれた手紙ではない分、どの場所、どの時代に生きるクリスチャンであっても、この手紙に学ぶ点は大きいということです。
そういう目で、改めてこの手紙の受取人についての記述を見てみましょう。エフェソと書かれた地名の部分を飛ばして読むと、この手紙は、その人がどこにいようとも「聖なる者たち」「キリスト・イエスを信じる者たち」に宛てて書かれた手紙であるということです。
「聖なる者たち」というのは、自分の力で聖となったわけではありません。神が聖であるように、神によって聖別された人たちです。それは、そのすぐ後に続けて記されているように、イエス・キリストを信じることと切り離して考えることはできません。キリストを信じ、聖別された人たち、これがこの手紙の受取人なのです。そして、この手紙を読むわたしたちも、キリストによって聖なるものとしていただくことができるのです。