聖書を開こう 2020年3月26日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  真理の霊(1ヨハネ4:1-6)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「理性と信仰」というテーマは、キリスト教の古い時代からしばしば取り上げられてきたテーマです。果たして、人はどうやって神を信じることができるのでしょう。

 証拠から論理的に導き出されることだけを信じることに慣れている今の時代にとっては、理性によって確信できないことは、信じるに値しないこと、と考えられています。

 けれども、理性によって説明ができることだけを信じるとすれば、信仰を人間の理性という限界に閉じ込めてしまうことになります。「有限は無限を容れない」という有名な格言がありますが、そもそも有限な人間の理性には神を把握しきれるはずがありません。それを無謀にも人間の理性の枠内に閉じ込めて理解しようとするのであれば、そのような信仰はナンセンスとしか言いようがありません。

 結局のところ、本来は人間の理性を遥かに超えたお方が、有限の存在である人間にもわかるようにご自分を現し、お語りになってくださっているからこそ、信仰が成り立つということです。その限りという限定付きですが、人は神を信じることができるようになります。また、そのように神の霊が人を正しく信仰へと導いてくださっているということです。

 もちろん、このような説明は、信仰を持たない人にとっては、あまり意味のない説明かもしれません。また、信じている人にとっても、自分が神の霊に導かれて正しい信仰を持っているのかどうか、不安にさせてしまうかもしれません。

 きょうの個所では、真理の霊とそうではない霊との区別がなされています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 4章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

 前回取り上げた個所の最後で、ヨハネは「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった”霊”によって分かります」と記していました。確かに信仰に関わる事柄は、神の霊が、そのようにわたしたちに確信を持たせてくださいます。けれども、同じ神からの霊によると言いながらも、違ったことを説いて回る預言者がいたことは、旧約聖書にも前例があります。ヨハネがこの手紙を書いていた時にも、異なる教えを説いて回る人たちがいたようです。

 そこで、ヨハネは「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」と警告を記しています。ヨハネがこのように警告するのは、間違ったことを説く人たちの教えが、巧妙だからということがあったからでしょう。明らかに間違ったことを説いてるのであれば、誰も耳を傾けたりはしないでしょう。けれども、納得がいくような教えをまことしやかに説いているからこそ、どの霊も信じてはならない、と警告しているのです。

 では、どうやって神から出た霊によって語る人とそうでない偽預言者を区別できるのでしょうか。ヨハネは続けてこう述べます。

 「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」

 ヨハネの時代も今の時代もそうですが、神の子であるイエス・キリストが、人間の肉体をとって世に生まれてきた、という教えは、人間の理性では受け入れがたい出来事です。そのため、あのキリストの受肉という出来事を人間の理性に受け入れやすく語ろうとするときに、真実を曲げてしまう危険がありました。実際、そうしようと試みて、間違った教えに落ちていった人々がおりました。

 したがって、ヨハネは、キリストが受肉した出来事を真摯に受け止め、それを曲げることなく語っているかどうか、そのことが神から出た霊によって語っているかどうかのしるしであると述べています。

 もちろん、キリスト教にとって基本的な教理はほかにもたくさんあるでしょう。たとえば、キリストは世の罪を取り除く小羊としてやってこられた、というのも、キリスト教の基本的な教理です。しかし、ヨハネがキリストの受肉の問題を取り上げたのには意味があります。そここそが、キリストの救いの御業のスタート地点だからです。肉を取ってこの世にお生まれになったからこそ、人間の罪を背負って救いの御業を遂行することができたからです。そして、そこには人類の歴史に確実な足跡を残したという事実も込められています。

 仮の姿でやってこられたのでもなければ、空想の世界で実現した出来事でもないのです。

 ヨハネはこの教えが神から出たものであり、また、この教えを信じる者たちも神からでたものであることを主張して憚りません。逆説的な言い方ですが、この世に属する者たちが、この真理に耳を傾けないという事実が、この教えが神に属する真理であることを物語っているとさえ述べます。

 そして、何よりも大切なことは、神に属する者たちは、世にいる者たちよりも強いという事実です。この世界にあるものは、神ご自身がお造りになったものですから、すべては神のご支配のもとにあります。神にはコントロールできないことは起こりえません。また、神には予想外の出来事もありません。そうであるからこそ、神に属する者たちは、世にいる者たちよりも強いのです。

 ヨハネの願いは、救いのためにキリストをお遣わしになった神のもとに、信じる者たちがとどまり続けることです。まことしやかな教えによって惑わされることなく、正しい教えに留まり続けることです。そして、神との交わりに生きる者たちには、その力が与えられていることをヨハネは確信しています。真理の霊に導かれて、信仰に留まることができますように、祈ります。

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