おはようございます。12月のキリストへの時間を担当する、高知県、芸陽教会の大宮季三です。
先日、湊かなえさんという作家の「Nのために」という小説を読みました。ある殺人事件が起きるのですが、その現場には4人の人物が居合わせていました。4人の人物はそれぞれ「N」というイニシャルを持つ存在を愛しており、事件の背後でそれぞれがNのために行動をとっていました。小説は、4人それぞれがとった「Nのため」の行動を紐解いていくというストーリーです。自分が愛している存在のために愛する行動をしたはずが、結果的に相手や周りの人を傷つけてしまうことになる。そんなことを教えられた小説でした。
この小説の文庫本の帯には、大きな文字で「究極の愛、それは罪の共有」と書かれていました。私はこの文字を見た時に、これはまさにキリスト教会に当てはまることではないかと思いました。皆さんはキリスト教会に対して、とても立派な人が集まるところというイメージを持たれているかもしれません。ナイチンゲールのような人ばっかりが集まっているんじゃないかと思われているかもしれません。ですが教会は、「立派な人」の集まりではありません。そうではなく「自分が罪人である」と知っている人の集まりです。
小説の帯には「究極の愛、それは罪の共有」とありましたが、罪人であることを共有しているのがキリスト教会です。ですが、キリスト教会は罪人である人間同士が慰め合って完結している集まりではありません。罪人であることを神様の前に告白し、イエス・キリストによる罪の赦しを共有する集まりです。
「究極の愛とは罪の共有である」という言葉は、女子大生の主人公の言葉です。この言葉の意味を問われた彼女は、「『罪の共有』とは『相手の罪を半分引き受けること』だ。」と答えます。彼女にとっては、究極の愛とは相手の罪を自分が半分担うことでした。
これもまた、キリスト教会が信じている、イエス・キリストの十字架に共通することです。イエス・キリストは私たちの罪を担って十字架の上で死んでくださいました。ですが、イエス・キリストが担ってくださった私たちの罪は、半分どころではなく「まるごと全部」です。私たちがこれまでに知らずに犯した過去の罪も、これから起こしてしまう将来の罪もすべて含めて、という意味で「まるごと全部」です。
イエス・キリストは約2000年前、日本から約9000キロ離れたゴルゴダの丘という場所で十字架にかかり私たちの罪を担ってくださいました。イエス・キリストの十字架の愛は、2000年という時間的壁も9000キロという地理的壁もブチ破り、今ここに生きている私たちに対して向けられています。イエス・キリストの十字架による赦しは「これまでの過去の罪だけを背負う」、あるいは「ここまでの大きさの罪だけは背負う」というような限定はありません。
「そんなこと言うけど、あなたは私の罪を知らないでしょ?」とおっしゃるかもしれません。確かにその通りで、私は誰がこのラジオを聞いているのかさえ知りません。ですが神様は、このラジオを聞いている皆さんお一人お一人を知り、お一人お一人のすべての罪をご存知です。神様は、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるなら、神様の前にすべての罪が赦され、天国への道が開かれるとおっしゃいます。
旧約聖書のミカ書の7章に「主なる神は、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(19節参照)という言葉があります。私は海の近くに住んでいて、毎日のように海を見ていますが、海の深いところに私のスマートフォンが投げ込まれてしまったら、私の手元にはもう戻ってこない、とあきらめるしかありません。それと同じように、神様は「あなたのすべての罪を海の深みに投げ込む」とおっしゃいます。神様はイエス・キリストの十字架において、あなたの過去、あなたの現在、あなたの将来にわたる「まるごと全部」の罪を赦すと宣言しておられます。
教会は、イエス・キリストの十字架によって示された「神の究極の愛を共有する集まり」です。「あなたの罪を海の深みに投げ込む」、この神の宣言を共に受け取りましょう。神様はあなたに向かって、この究極の愛を差し出しておられます。