おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。
今朝は使徒パウロが記しました、コリントの信徒への手紙第一 15章50節から58節の御言葉に耳を傾けましょう。お読みいたします。
「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
あなたはどのような時、死について考えるでしょうか。身近な人が死んだとき、死の現実的な力に直面し、戸惑い、深く悲しむのではないかと思います。その人が死に飲み込まれてしまったかのように感じ、死を憎むことさえあるかもしれません。また自分の死を考え、恐れを抱くこともあるでしょう。私たちはそのような死とどのように向き合えばよいのでしょうか。
今日の御言葉の中でパウロは「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と言っています。死には私たちを痛めつけ、害する「とげ」がある。それは言わばさそりの毒針のようなものです。そして「死のとげとは罪である」と言われています。死は罪というとげによって私たちを刺し、死に至らしめようとするのです。
そして「罪の力は律法です」とも言われています。これは少しわかりにくいのですが、罪の力は律法を通して私たちに働くということでしょう。律法は本来、私たちを命に導くために神様が与えてくださった善いものです。しかし罪人である私たちは律法に背いて罪を犯してしまいます。そうして罪は律法を通して私たちに死をもたらすのです。
死は罪という「とげ」によって私たちを刺し殺そうとする現実的な力です。私たちは自分の力でその死に打ち勝つことはできません。しかしパウロは死に対する勝利を確信し、高らかに宣言しています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」この御言葉が必ず実現すると言っています。
それは死者が朽ちないものへと復活するときであり、死ぬべきものが死なないものへと変えられるときです。その時、すべてを飲み込んでしまうかに思えた死が、逆に勝利に飲み込まれてしまう。その時、死の勝利はもはやどこにもない。私たちを痛めつけていた死のとげ、罪そのものがなくなってしまうのです。
そのような勝利を与えてくださるのは神ご自身です。それゆえパウロは言います。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と。私たちはだれも自分で死に勝利することはできません。しかし神がイエス・キリストを通して私たちに「死に対する勝利」を与えてくださるのです。
主イエス・キリストは私たちの罪のために死に、3日目に復活されました。キリストはその死によって私たちの罪を贖ってくださり、死に勝利して復活されたのです。このキリストを通して神は私たちをも復活させ、死に勝利させてくださるのです。それゆえ、私たちはそのような勝利を与えてくださる神様に感謝して生きていきたいと思います。
もちろん、この世で生きていく限りは様々な苦しみや労苦があります。しかし主に結ばれているならば、私たちの苦労は決して無駄にはなりません。終わりの時、神様が報いてくださるからです。私たちは朽ちないものに変えられ、朽ちることのない神様の永遠の御国を受け継がせていただけるのです。私たちにはそのような希望が与えられているのですから、たとえどのようなことが起こったとしても、私たちは「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励」んでまいりましょう。