キリストへの時間 2020年10月25日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

小澤寿輔(高知教会牧師)

小澤寿輔(高知教会牧師)

メッセージ: イエス・キリストと出会った人たち-香油を注いだ女



 おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。今月は「イエス・キリストと出会った人たち」というテーマで聖書に聴いています。第8回の今日は、イエス・キリストと、イエス・キリストに香油を注いだ女の人の出会いの場面について聴きます。(以下マタイ26:6-13参照)

 イエス・キリストがベタニアという町のシモンの家におられたとき、一人の女の人が登場します。その女の人は「極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけ」ました。この香油は「極めて高価な」とありますが、いったいどのくらいの値打ちがあったのでしょうか。並行箇所のヨハネによる福音書12章に「この香油を300デナリオンで売って」(ヨハネ12:5)とあります。1デナリオンは当時のユダヤ人の1日分の報酬額ですから、300デナリオンは300日分の報酬ということになります。現在の経済価値に当てはめれば、数百万円に相当するでしょうか。

 なぜそのような高価な香油をこの女の人は持っていたのでしょう。ある説によると、香油はユダヤではどの家庭でも、結婚のために用意するのだそうです。ユダヤの家庭に女の子が生まれると、両親は香油を買うために貯金を始めます。普通の労働者の300日分の賃金に相当するほど高価な香油ですから、すぐに買うことはできません。ユダヤ人たちは長い間貯金をして、娘が大きくなった頃にやっと買うことができたそうです。

 そして娘は、自分の結婚式の日に香油が入った石膏の壺を石で割って、体に注いだのだそうです。香油とは、女性にとって最も幸福な結婚の日のために用意するものだということになります。つまり、これは女性が幸せに生きるために不可欠なものです。未婚の女性にとって香油とは、それほど大切な物だったのです。そうだとすると、そうやすやすと無駄遣いするわけにはいきません。皆、開封せずに結婚の日が来るまで大切に保管していたはずです。

 ではなぜこれほど大切な物を、この女の人はイエス・キリストに惜しみなく注いだのでしょうか。福音書にはその動機は書かれていません。これは想像の域を越えませんが、この女性はイエス・キリストがどういうお方であるのかを感じ取ったのではないでしょうか。イエス・キリストとの出会いそのものに、大きな喜びと感謝があったのではないでしょうか。自分が持っている物の中で最上のものをお献げして、イエス・キリストに対する自分の献身を精いっぱい表したいと思ったとき、自分の一生の幸せを約束する香油でさえ、イエス・キリストに献げても惜しくないと思ったのでしょう。

 一方、それを見ていた弟子たちは憤慨し「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。」と言ってこの女の人の行為を激しく非難しました。彼らの目には、この美しい愛の行為が「無駄」にしか見えなかったのです。弟子たちは「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言います。確かに、弟子たちの言うことは間違いではありません。貧しい人々のそばに立つことこそ、教会の大切な使命の一つです。彼らはいつも貧しい人々と共にいて、彼らと生活を分かち合うために奉仕したのでしょう。

 しかし弟子たちは、自分たちの主人が今、まさに取られようとしていることにまだ気付いていなかったのです。他方、この女の人は、イエス・キリストとの一期一会を大切にして、自分が今出来ることの最大限を表しました。その心は弟子たちの思いを上回る、生き生きとしたまことの神への献身でした。そのような彼女の打算を越えた最大限の愛こそ、イエス・キリストの愛に応える態度のあるべき姿なのではないでしょうか。

 この場面をご覧になって、イエス・キリストは彼女の側に立ち、次のように言われました。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 名もない女性から極めて高価な香油を注がれて、メシア(「油注がれた者」という意味)が世に来られたことの証しがなされました。他の誰よりも、イエス・キリストこそ、そのような高価な香油を受けるのにふさわしいお方に違いありません。救い主の十字架という一回きりの出来事を前にして、この女の人のしたことは、この時を除いて誰も二度と繰り返すことのできないことでした。ですから、この行為は第三者にとって無駄のように見えても、イエス・キリストにとっては、非常に価値のあることだったのです。

 この女の人は、ただイエス・キリストに愛と感謝を表現しただけでした。自分にできる精一杯のことをしただけでした。それが「主を葬るための準備」であることなど、思いもよらなかったことでしょう。けれども、神はそうした名も知れぬ一人の女性のまっすぐな信仰を通して、御子イエスの十字架への道を備えられたのでした。

 このように、神に対する真実の愛は、無意識のうちに、自分の知らないところで、神に喜ばれる行為となって現れるのです。私たちも神の大きなご計画の中で自分のできる精一杯のことをするならば、それがどんなに小さなことであっても、神が喜んで受け取ってくださると信じます。それがいつのどの行為であるのか、私たちには分からないかもしれません。でも、私たちがイエス・キリストを愛して行うその心が「極めて高価な香油」となるのです。



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