おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
旧約聖書の中に「ノアの洪水」とか「ノアの箱舟」と呼ばれる出来事が記されています(創世記6-9章参照)。悪が地上にはびこる様子をご覧になった神が、洪水によって世界を滅ぼしてしまう話です。ノアの箱舟のストーリー自体は、子供にもわかりやすいストーリーです。しかし、重箱の隅をつつくような読み方でこの話を読みだすと、疑問だらけになってしまいます。
例えば、常に悪いことばかりを思い計る人間をご覧になって、地上に人をお造りになったことを神は後悔された、と出てきます(創世記6:5-6参照)。人間はしょっちゅう後悔することがありますが、神がご自分の造ったものについて後悔するとは、いったいどういうことだろうか、と疑問が湧いてきます。もちろん「後悔」という翻訳が正しいかどうか、という問題があるかもしれません。「後悔」ではなく「残念に思われた」と翻訳しても、あまりにも人間的な表現に戸惑いを覚えて、先へ進めなくなってしまいます。
あるいは、人間が悪いのであれば、動物や草木までも洪水によって滅ぼす必要があったのだろうかと、素朴な疑問が湧いてきます。しかし、この出来事を人間的な判断で批判し始めたら、もはや聖書に聞く姿勢そのものがなくなってしまいます。
先ほど、ノアの話を簡単に要約して、神が洪水によって世界を滅ぼす話だ、と言いました。しかし、正確にはそうではありません。この話を終始「滅び」に着眼して読んでしまうと、肝心な点を見過ごしてしまいます。ノアの話の中心点は、世界が完全に滅んでしまわないように、ノアとその家族に神が特別な恵みを示された話です。さらに言えば、このような手段で二度と世界を滅ぼしたりはしないと、神が約束してくださった話です。
これは、ノアの箱舟の話を読む上でとても大切な視点です。ノアの洪水の話は罪深い世界に対する審判であると同時に、そこには神の憐れみと恵みも描かれています。いえ、ノアの話ばかりではありません。聖書全体が、神の憐みに満ちた書物です。
さて、洪水が収まり、水がだんだんと引いていく様子が印象的に描かれます。ノアの放った鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってくる場面は印象的です(創世記8:11)。これから訪れる平和な世界をまるで象徴しているかのようです。ちなみにオリーブの葉っぱをくわえた鳩の図柄は、たばこの銘柄『ピース』の箱のデザインにもなっています。
完全に水が引いて、渇いた大地に降り立つノアとその家族の前に虹が現れます。虹自体は自然現象なので、ノアの洪水の前にも虹はあったかもしれません。あるいは、この時初めてノアは虹を見たのかもしれません。ここで大切なのは、虹の起原の話ではなく、虹に特別な意味を与えた神の約束の言葉です。神は虹を契約のしるしとして指し示されたということです(創世記9:12-13参照)。その契約とは、洪水によって二度と肉なるものがことごとく滅ぼされるようなことはない、という内容です。虹が出るたびに、この神の契約を思い出すようにと、神は契約のしるしとして虹を与えられたというのです。
洪水によって世界の滅びが起こらないのは、ノアの家族とそこから生まれてくる子孫たちが、神に従順な人々となることを予想したからではありません。神はきっぱりと、こうおっしゃっています。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8:21)
これは、神の側の諦めではありません。罪深い人間に寄り添おうとする神の側の恵み深い決意です。神は罪深い人間に忍耐し、ついには救い主を送ってくださいます。ノアの見た虹は、神の憐れみと恵みのしるしです。