おはようございます。いかがお過ごしでしょうか。広島県東広島市西条中央にある東広島教会の牧師をしております、李哲敏(イ・チョルミン)と申します。どうぞよろしくお願いいたします。お近くに来られた時はぜひ、東広島教会にお立ち寄りください。
人間の人生は B(birth) とD(death) の間の C(choice)の連続だという言葉があります。ここでいうC、選択は何に関することでしょうか。左か右か、うどんかそばか。お若い人たちは、Google社のandroidかApple社のiOSか。私たちはまさにほぼすべての領域における、選択の連続に生きているようです。その中で人間の最も根本的なのは、神さまと罪に関する選択の連続だと思います。
旧約聖書箴言3章は、父の子への諭しです。ここの父、すなわち著者はソロモン王ですが、信仰的には神さまでもあります。とにかく、父は自分の子どもへの愛の思いで、子の人生が祝福に満ちたものになるためのいろんな知恵の言葉を語ります。祝福の人生の出発点であり、中核は「わたしの教えを忘れず、わたしの戒めを心に納める」ことだと教えます(箴言3:1)。続いて「慈しみとまことがあなたを離れないようにし」(箴言3:3)、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず」(箴言3:5)、「常に主を覚えてあなたの道を歩き」(箴言3:6)、また「自分自身を知恵ある者と見なさず、主を畏れ、悪を避けよ!」(箴言3:7)と教えます。
以上語られた内容をあえて二つに分けると、
慈しみとまこと、主に信頼すること、主を覚えること、主を畏れ悪を割ける避けることが片方。
もう一方は、自分の分別に頼ること、自分自身を知恵ある者と見ること。7節の悪になります。
それで、この両者をそれぞれひと言で言えば、神さま側と罪の側となり、私たちの人生はこの二つの間での選択の連続だといえるでしょう。この両者は正反対の性質でありながらも、その中にある私たちと密接につながっていて、私たちの生き様、すなわち私たちの考え、言葉、行動、そして信仰にも大きな影響を及ぼします。
これはどういう意味かといえば、私たちは神さまの方にも、罪の側にもつながっていて、私たちの心がどちらの方に傾くかによって、私たちの生き様もそれによってどちらかの方に偏るようになるということです。愛する人がいれば、人は相手へのすべての感覚が敏感になります。相手が好きな言葉と行動をしようとします。相手が好きな色の服を探します。相手が好きな場所、音楽、食べ物、飲み物などを自然に覚えます。全ての感覚が敏感に作動しながら、相手に向かいます。同時にその感覚は、相手が嫌がることにも敏感に反応します。嫌いな言葉、色、場所、食べ物などに。
同じように私たちの心が神さまに向かう時、私たちの神さまへの感覚は敏感になります。私たちの考え、言葉、行いが神さまのみこころにかなうものであるかどうかを常に考えるようになります。それと同時に、神さまが嫌われる罪に対しても敏感になります。逆に言えば、神様に鈍感になると、罪に対しても鈍感になるということです。自分の分別に頼り、自分自身を知恵ある者と見ることは、神さまのみことばより、神さまへのお祈りより、自分の判断や思いが先立つことです。そのような人の祈りはすでに結論を出して祈ることです。こうしたのは、自分が現在神さまに対して鈍感である証拠であり、その鈍感の結果そうしたことです。
いつも、神さまに敏感になりましょう。常に主の教えを覚え、主の戒めを心に納めましょう。慈しみとまことから離れず、それを心の中の板に書き記しましょう。常に主を覚え、主を畏れ、悪を避けて、主の道を歩みましょう。そうすれば、命の年月、生涯の日々が増し、平和が与えられます。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功させてくださいます。そうすれば、主が私たちの道筋をまっすぐにしてくださいます。これこそが、私たちの体にも魂にも真に有益な祝福の生き様です。