おはようございます。高知県安芸市にあります、芸陽教会の大宮季三です。
さて、私が高校3年生の時、体育の授業で数キロメートルを走らなければならない「持久走」がありました。持久走を行う最後の日、体育教師は私たちにこのようなことを言いました。「人生の中で、長距離を強制的に走らされるのはこれで最後だ!」私は運動が嫌いというわけではなかったのですが、持久走は嫌いだったので、「そうか、これが長く走る最後の日になるのか!」と思い、その言葉が励みになりました。確かに、それ以降の人生において少しの距離を走らなければならないという経験はありましたが、長距離を強いられて走るという経験はありませんでした。
ところが、近年の私は健康のために自らランニングをするようになりました。体育の授業で強いられた距離よりも数倍以上の長距離を走るようになりました。嫌だったことを自主的にするようになったのです。
それだけではありません。小学生の頃、母親に大きな声で起こされ、何事かと聞いてみると「野菜の芽が出た!」と言われ、「なんでそんなことで起こすんや!」と怒っていた私ですが、高知に住むようになり、自分から野菜を育てるようになりました。考えてみると、生活習慣や好み、考え方は歳を重ねると共に、どんどん変わっていることに気付かされます。テレビではNHKニュースを見るようになり、脂っこいラーメンはあまり食べられなくなりました。
私はまだ30数年しか生きていませんが、私の中でずっと変わっていないことといえば、教会に行っていることと、阪神タイガースを応援していることぐらいではないかと思います。私の妻も、私と結婚をし野球のルールを少しずつ覚えたり、六甲おろしを口ずさむようになりました。おそらく、数年後この放送を聞き直したとすれば、またその時、「自分はまた変わったなぁ」と思うのではないでしょうか。
私たち人間は変わり続けます。自分も他人も変わり続けます。ですから、何かちょっとしたことがきっかけで、他人との関係や結婚関係でさえも、あっという間に変わります。今日愛せた人を、何かがきっかけで明日愛せないということは驚くべきことではありません。何かがきっかけで自分も変わるし相手も変わる、だからこそ、私たちの人間関係はとても難しいものです。私たち人間はそのような中で、いったいどのように健全な人間関係を築いていくべきなのでしょうか?
人間は変わり続けます。しかし、唯一の変わらない存在を聖書は記しています。聖書に示されている世界を創造された真の神は「不変」、「変わらない唯一の存在」です。「あの時はあの時!」「今は今!」という私とはまるで違います。そして、その神の愛は変わらない「不変」のものです。
神の子であるイエス・キリストは人間のためにご自分の身体と血を捧げてくださいました。イエス・キリストが十字架にかかったのは約2000年ほど前のことですが、この神の愛は、今を生きる私たちにも変わらず差し出されています。この「変わらない神」の「変わらない神の愛」を受け取ることが、隣人を愛することと一体的なことである、と聖書は教えています。「変わらない神の愛」を受け取ることから、新しい人間関係を構築されていきます。
今日も、教会は変わらない神の愛を宣べ伝えています。どうか、神の愛を受け取ってください。神は私たちに神の愛を差し出し、愛に生きる新しい人間関係を与えようとされています。