おはようございます。高知県安芸市にあります、芸陽教会の大宮季三です。
先日、私はある小説を読みました。小説の主人公は一人の兄を持つ二人兄弟の弟です。彼の兄は優秀で、母はこの兄をとても大切にし、家庭は兄を中心として歩んでいます。しかし、主人公の兄のある犯罪がきっかけとなり、思春期の時に家庭は崩壊していきます。父は失踪し、母はあまり家に帰ってこなくなります。主人公は、暴力、いじめ、差別、父と母との断絶という過酷な環境の中で苦難と絶望の連続を強いられます。
彼は、家の近くにできた教会の神父から聖書をもらい、時折聖書を開きます。ですからこの小説にはたくさん、聖書の言葉が記されています。彼が中学3年生の時、いよいよ家出をし故郷を離れます。そして逃げるように東京に行きます。過酷な状況でありながら、平穏な生活がかすかに手に入ったと思われたそのときにもまた、信頼をおいた人に裏切られます。
そんな時に開いたのが、旧約聖書の「伝道の書」です。これは「コヘレトの言葉」とも呼ばれる書ですが、この伝道の書の6章を開きます。そこにはこのようなことが記されています。「太陽の下には不幸があり、流産の子の方が幸いだ」。主人公は自分の状況を記していると思いその言葉に目を留めます。彼は何度も、伝道の書6章を読んだそうですが、主人公は自分のことと重ね合わせ、生まれなかった方がよかった、まさにその通りだと感じるのです。
この「伝道の書」には、「空しい」という言葉が何度も出てきます。太陽の下(もと)でいくら金銀を得ても、いくら快楽を得ても、すべては「空しい」と著者は語るのです。地上の生活において、苦難は尽きることがありません。
しかし、この伝道の書の著者が語る「空しさ」は、あくまでも「太陽の下」という限定付きです。伝道の書は、確かに地上の「空しさ」を鋭く明らかに記しているのですが、聖書全体を読むと、太陽の上、つまり天におられる神がどのような方であるのかは明らかです。
天におられる神は、上から見下ろして「地上は大変そうだなぁ」と傍観されている方ではありませんでした。世界を創られた神は、ご自分の独り子である神の子、イエス・キリストを、地上の悲惨な状態にある人間のために差し出されるお方です。
確かに、地上に苦難は尽きません。しかし、世界を創られた方が独り子の命を差し出すほどにこの地上を愛しておられるのであれば、私たちの人生は「空しい」ままで終わることはありません。神の独り子イエス・キリストは「あなたの友」として歩んでくださいます。そしてこの友は、あなたのために命を差し出してくださったお方です。神の独り子であり、あなたのために命を差し出してくださる方が、あなたの友です。この方はそして「あなたと共にいる」と繰り返し繰り返し、あなたにおっしゃってくださいます。
この喜びの知らせを教会は宣べ伝えています。教会にはすでに、この歩みを始めておられる方がたくさんいらっしゃいます。どうかあなたも、その新しい歩みを始めてみませんか?心からお勧めします。