キリストへの時間 2020年4月19日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

瀬戸雅弘(宿毛教会会員)

瀬戸雅弘(宿毛教会会員)

メッセージ: 保育の父・佐竹音次郎(1)



 おはようございます。宿毛教会の瀬戸雅弘です。
 聖書に触れて、この神の言葉に心動かされ、生き方を変えられた人は多くいます。今朝はその中でもまだあまり知られていない「保育の父・佐竹音次郎」についてお話しします。

 教文館発行「日本キリスト教歴史大事典」には、佐竹音次郎は明治時代が始まる4年前の1864年、現在の高知県四万十市竹島に生まれた、とあります。肩書きには「鎌倉保育園設立者」と書かれています。鎌倉保育園とはいわゆる保育園のことではなく、現代の「児童養護施設」に相当します。

 江戸時代末期、黒船来航と共に明治維新を迎えます。同じ頃、イギリスで孤児院を経営していたジョージ・ミュラーの存在があります。ジョージ・ミュラーは新島襄に招聘され同志社で講演をしました。この講演に心動かされた者は多く、孤児の父といわれた石井十次や北海道家庭学校の留岡幸助など、日本における福祉の草分け的存在が同時代に輩出されます。「保育の父・佐竹音次郎」も福祉に人生を懸けた人物ですが、彼はどのような生い立ちであったのか、なぜ保育の父と呼ばれるのかを考えてみたいと思います。

 音次郎郷里の農家は貧しく、四男として生まれた音次郎は当時の悪習である「間引き」に遭う運命でした。しかし母が厄年だという理由でその魔の手から逃れられ、母の胎に居るときに養子にもらわれることが決まりました。

 この世に生を受けた音次郎が乳離れし、中村城下町の染め物屋に迎えられます。音次郎は佐竹姓を名乗り、新たな生活が始まります。ところが紺屋佐竹家が崩壊し、音次郎は心身共に疲れ果てます。それを見かねた実の父は音次郎を生家に引き取りました。そして音次郎に家業である農業を教えます。しかし町で暮らしていた音次郎は兄たちと同様に働くことができず、ここでも苦しい毎日を過ごします。再び音次郎は弱りました。

 18歳になった音次郎に、父は町に居た頃のように勉学を許し、やがて音次郎は地元の小学校で勤めるようになりました。子供と日々触れる中で、音次郎の心に「自分のように恵まれない子供を助けられるような人になりたい」という強い思いが芽生えます。ここから数年、様々な職に就きます。その中で音次郎は医師としての道を選び、29歳で医学専門学校済生学舎を卒業しました。

 医者になった音次郎は山梨県立病院に赴任します。甲府を去る時、林夫人から『キリスト伝』と新約聖書が贈られました。

 音次郎は自分の故郷と風景がよく似ている江ノ島が気に入り、この付近に腰越医院を開業します。自分の生い立ちゆえに高い理想を持っていた音次郎は、困っている患者を見過ごしません。ある日、肺病の未亡人が診察に来ました。すでに娘を引き離し治療に専念させなければならない状態でした。しかし、娘の面倒を見る人が婦人にはいません。音次郎は思わず「そのお子さんは私がお世話しましょう。」と言いました。やがて評判が評判を呼び、音次郎のもとには同じような事情で助けを必要とする子供が集まるようになりました。

 音次郎が選んだ鎌倉の地には、歴史的にも忍性(にんしょう)が困窮者救済事業をした極楽寺の存在がありました。当時あちらこちらに孤児院も設けられていました。しかし、孤児院は一般的には5歳以上の子供を養育しており、それ以下の乳幼児はかわいそうな状況でした。音次郎は病院の看板の横に「小児保育院」と名札を掲げました。

 音次郎が行った事業は孤児院です。しかし音次郎は孤児という言葉を嫌いました。それは「すでに子供を我が家に迎え入れたからには自分は彼らの父である。たとえ立派な親でなくても自分という親ができている。もはやこの子供は孤児ではない。」と考えました。漢詩の心得があった音次郎にふと「保育院」の名が浮かびました。「子供を保(やす)んじて育てる」。日本で初めて「保育」という言葉が音次郎によって生まれました。

 音次郎はある時、いただいた聖書を開きました。するとキリストの有名な「山上の垂訓」が目に留まりました。「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。幸いなるかな悲しむ者、その人は慰められん…」(マタイ5:3-4・文語訳)

 音次郎はその後、開業している医院内で感染症が蔓延し我が子を含む幼児を亡くしたり、自らが過労のため生と死の境をさまよったりします。そんな時、音次郎は宣教師の紹介で津田仙に出会い、彼の手引きにより夫婦で鎌倉教会において洗礼を受けクリスチャンになります。音次郎37歳の出来事です。

 音次郎は聖書の言葉に出会った時のことをこう書き残しています。「なるほど!これは論語以上の教えだ。自分のような者を守ってくれる本はこのほかにはない。」それからの音次郎は、自分が始めた事業は神から授かった働きであると確信し、ますます子供のために邁進して行くのでありました。



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