おはようございます。今日はイエス・キリストが十字架に死んで3日目に復活されたことを記念する「復活節」です。「イースター」とも呼ばれています。キリストの復活は聖書の中で最も重要な出来事です。日本人にはあまりなじみがないかもしれません。しかし、キリストの復活という事実は、私たち日本人の心の奥深いところに宿っている宿命論的な考え方を木っ端みじんに打ち砕く重要な意味を持っています。
今朝の聖書の箇所(テサロニケ4:13-14)で、イエス・キリストの弟子パウロは「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」と語っています。「眠りについた人々」とはぐうぐう眠っている人のことではありません。イエス・キリストを信じてすでに「死んだ人々」のことを意味しています。「希望を持たないほかの人々」とはクリスチャンではない人たちのことを言っています。何か差別的で小馬鹿にされているような表現に思われる方がおられるかもしれません。しかしそうではなく、一つの事実を語っている言葉なのです。
実際私たち日本人にとって、死は究極的な悲しみの対象です。特に愛する我が子、あるいは父や母、夫や妻、恋人や親友などの死に直面した時、私たちは本当に悲しみに暮れ、ずっと立ち直れないままであることも起こります。望みをなくしてしまうことさえ起こります。その時、一番心の奥深くにある思いは「死んだら終わりだ、もう死んだらどうしようもない。」という考えだと思います。
しかし、聖書はここでそのように希望を持たない者のようには嘆き悲しむなと言っているのです。悲しむことを否定しているわけではありません。聖書は非人間的な書物ではありません。悲しむことを受け入れています。死が地上における決定的な別れであり、悲しみの涙を流すことも十分に理解しています。にもかかわらず、聖書は「希望を持たない者のように悲しむな」と言っているのです。死がすべての終わりではない。望みがあるではないかと語りかけています。
では、その望みとは何でしょうか。今朝の聖書の箇所でパウロは続けてこのように言っています。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(4:14) 希望の持たない者のように嘆かないのはたった一つの理由です。それは「キリストの復活」という事実です。聖書は死の原因を明確にしています。同じパウロはローマの信徒への手紙の中で「罪が支払う報酬は死です。」(6:23)と明確に語っています。人間の罪が死をもたらす。イエス・キリストの十字架の死はご自分の血潮によってこの罪の償いがなされたことを意味しています。イエス・キリストの復活は死に対する勝利の宣言です。聖書が「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」(1コリント15:55)と語る通りです。キリストを信ずる者には、罪赦されてキリストが復活されたように、死に勝利し復活の体が与えられるのです。ですからパウロは「イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と語っているのです。
死はどうしようもないもの、全ての終わりではありません。確かに、死による地上の別れは深い悲しみですが、すべてが終わったのではありません。キリストが死に打ち勝ち、復活されたように、私たちもキリストが再び来られるときに、復活し、再び相まみえることが許されるのです。ここにキリストを信ずる者の究極的希望と慰めがあります。復活節こそ、この希望をはっきりと確信する日なのです。