おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストが祈られるという時、聖書は「いつものように」「いつもの場所で」祈られた、と語ります。それほどイエスは、父なる神に祈ることを習慣とされていました。(以下ルカ22:39-46参照)
十字架にかけられる前の夜、イエス・キリストは、弟子たちと最後の食事をされた後、いつものようにオリーブ山のゲツセマネの園に行かれました。そして弟子たちには「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われて、ご自分は少し離れた所にひざまずいて祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
イエスが取りのけてくださいと願う「杯」は、これからイエスが受けなければならない苦難と十字架上の死です。イエス・キリストは、私たち人間の罪を贖うための供え物、神の小羊として、この地上に人としてお生まれになりました。イエスが受けなければならない「杯」は、神の怒りと呪いを受けての死です。「死」は、罪の支払う報酬であり、神からの刑罰として、もたらされたものです。
罪のないイエスが、私たちに代わって耐え忍ばなければいけないのは、肉体の苦痛以上に、神からの断絶と怒りという霊的な苦痛です。それは、私たちの想像を絶するものです。「罪と何のかかわりもない方を神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(2コリント5:21)
さらにイエスは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。イエスは、父なる神の御心に終始従うことを祈りました。父なる神の御心とは、イエスに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること、イエスを見て信じる者が永遠の命を得ることです。(ヨハネ6:39参照)
イエスは苦しみ悶えながら、汗が血の滴るように地面に落ちました。イエスの祈りが、どれほど激しく感情の込められた祈りであったかが分かります。天から天使が現れて、イエスを力づけました。それはイエスの苦しみ、悲しみを取り除くためではなく、苦しみの中で神の御心を行うことができるように、与えられた使命に耐えられるように励まし力づけるためでした。神の杯は取り除かれることなく、イエスは十字架上に死なれました。
しかし、イエスの祈りは聞き入れられました。それは、イエスの「この杯を取りのけてください」という自分の願いではなく、神の怒りの杯を飲み干すことが父の御旨であると、自分の思いを従わせることができたからです。
聖書には「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブライ5:7)とあります。父なる神の御心を知っていることと、御心に従うこととは別であり、従うためには自分を神に明け渡さなければいけません。父なる神の御心に信頼し、それに喜んで従うというイエスの決意がサタンに対して勝利を収めたのです。
苦しみ、悲しみが大きい時、私たちは、神に祈りながらも不安や絶望に押しつぶされそうになります。しかし、イエス・キリストが開いてくださった祈りの道を通る時、私たちはいつも最善のことをしてくださる神への信頼へと導かれます。そして祈りの結果は、たとえ自分の願い通り、思い通りにならなくても、神の御心に委ねて従おうと決意することで、真の平安と慰めが与えられるのです。