おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストは、弟子たちに「祈り」を教えています。祈りは、神と私たちとの生きた交わり、対話です。私たちは、毎週日曜日の礼拝における神との交わりだけでなく、日々の信仰生活の歩みの中で様々な困難な事柄に遭遇するときにも祈ります。祈りによって神に助けを求めることで、希望と忍耐をもって生きることができるのです。イエスは「気を落とさず、失望しないで絶えず祈らなければならないことを教えるために」次のようなたとえを話されました(以下ルカ18:1-8参照)。
ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいました。彼は、賄賂をとり、状況に応じて自分に都合の良い判決を平気で下す人でした。その裁判官のところに、夫を亡くして一人で生きている女性がやってきました。女性の地位が低かった当時、未亡人が一人で生きていくことは、大変厳しいものがありました。具体的にどんな不当な扱いを受けたかはわかりませんが、とにかく彼女は裁判官に「相手を裁いて私を守ってください。」と訴えました。しかし裁判官はその求めに全く耳を貸さず、一向に取り合いませんでした。ところが彼女は、いくら門前払いされても、あきらめずに何度でも足を運び、同じことを訴え続けたのです。ついには、この不正な裁判官も面倒になり、彼女のために裁判をすることにしました。
一人の女性の熱心な訴えが、このような悪い裁判官をも動かすのですから、ましてや、愛と義と慈しみに満ちておられる神が、昼も夜も叫び求めている私たちの祈りを、いつまでも放置しておかれるはずはありません。神は速やかに裁いてお答えをくださいます。私たちは、たとえ話の未亡人のように神を根負けさせるのではなくて、全能かつ真実の神に絶対的な信頼と希望を抱いて祈り続けることが大切です。神は「速やかに」祈りに答えてくださいます。
しかしそれは、神の定めておられる「神の時間」という点から考えなければいけません。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペトロ3:8)
人間の側の尺度で「遅い」とか「早い」とか結論を出してはいけません。私たちは、祈りを通して神の定められた時を見極めるのです。
また、神からの答えは、必ずしも私たちが願ったとおりであるとは限りません。場合によっては、私たちの思いとは全く異なることもあるのです。それは、今それが、その人にとって「ふさわしくない」という場合もあれば、神がもっと別のことをご計画しておられることもあります。いずれにしても天の父は、私たちに悪いようにはなさらないのです。私たちにとって「一番ふさわしい時に一番ふさわしい物」を与えてくださるのです。
私たちはつい、「長年祈り続けているのに答えてくださらない。祈っても無駄ではないか。」そのように、自分で結論を出し、あきらめてしまいがちです。しかし、特に愛する家族や、親しい友人、知人の救いのための祈りは、長年かかって、あるいは、私たちが天国に召された後に実現することすらあります。
聖書にはこうあります。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは、既にかなえられていることも分かります。」(1ヨハネ5:15)
神の真実さを信じてイエス・キリストを通して大胆に神に近づきましょう。