いかがお過ごしでしょうか。野島邦夫です。
今回のシリーズでは、教会と礼拝について改めて考えています。
公同礼拝がキリストの体、教会の要です。公同礼拝の要は、プロテスタント教会では、説教だと言われます。そう言われるのも大きな理由がありますが、説教だけでは礼拝になりません。礼拝は、神から人へ恵みを伝える部分と、人から神への感謝の応答の部分とから成る、神と出席信徒たちとの相互の人格的交流ですから。
こんなことを言われるクリスチャンがおられます。わざわざ教会に行ってつまらない説教を聞くくらいなら、名説教家といわれる先生の説教集を家で読むほうがはるかに恵まれる。しかし、この時その説教は礼拝説教ではなく宗教講話になっています。恵みを受けるだけになっているからです。
さらに想像してみましょう。教会堂での礼拝の様子をネットなどでリアルタイムで視聴することは、礼拝出席になっているでしょうか。確かに説教集を読むことだけよりは、ずっと臨場感もあり、自分もその場にいるかのような気持ちになるかもしれません。けれども、これも「恵みを受けるだけ」でしょう。
というのも、応答は可能でしょうか。祈りは?信仰告白は?賛美は?献金は?もちろんやむを得ない場合はあるにせよ、この問題は世界がますますネット社会になる中で、一度は考えておくべきではないでしょうか。