いかがお過ごしでしょうか。野島邦夫です。
今回のシリーズでは、教会と礼拝について改めて考えています。
公同礼拝がキリストの体、教会の要(かなめ)です。では公同礼拝の要は何でしょうか。プロテスタント教会の関係者であれば十中八九、説教だと答えられるでしょう。そう言われるのももっともです。神からの呼びかけと救いの恵みの伝達が無ければ、人はどうして霊的に目覚めて応答することができるでしょうか。
聖書朗読の部分がその土台です。説教はその聖書箇所の現代人向けの解説です。キリストの体の一員として信仰的に自覚して礼拝に出ることが重要ですが、たとえ無自覚であっても、いわば「霊的に眠りこけた人の魂をもその場で起こす」のが説教の力です。嬉しい時にも悲しい時にもどんなときにも礼拝に出ましょう。疲れ果てた人の魂をも、説教は励まし力を与えます。そして、神への応答への意欲を起こしますし、その時だけではなく、その一週間を貫いて毎日の生活の支えになります。
補足的な事ですが、古代からの強い伝統では聖餐が礼拝の要です。そこでは、パンとワインによって神の恵みが差し出され、信徒はそれを受け取って口にして恵みに応えます。「神から人へ」と「人から神へ」が共にこの中で、しかも五感でわかる形で実現しています。その意味合いの説明付きで、という条件はありますが、聖餐の大切さを改めて覚えましょう。