おはようございます。田無教会牧師の中山仰です。
私の先輩の牧師の話です。日曜日の礼拝の後に、次の集会所に向かう時のことでした。渋滞していると思ったら、少し先に人が道に倒れています。先生は次の奉仕がありますから「早よ行こう」と促しますと、(一緒にいた)奥さんは「私は看護婦ですから見捨てられません。降りますから、急ぐのでしたらご自分で運転して行ってください。」とたしなめられたそうです。その時「善きサマリア人の話」を思い出したと反省されていました。(以下ルカ10:25-37参照)
ある一人のユダヤ人が旅の途中、追いはぎに襲われ半殺しにあいます。そこへ同胞であるひとりの祭司が道をくだってきますが、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまいます。次に来たレビ人も同様に、見て見ぬふりをして行きます。
ところがそこにサマリア人の男が通りかかります。サマリア人はユダヤ人と仲たがいをしていましたが、その男は倒れているユダヤ人の男を見てあわれに思い、介抱したというお話です。この時、この瀕死の人の隣人となったのは、当然、最後の善いサマリア人ですよね。
祭司やレビ人とは、ユダヤ人の中で神と人との間に立って執り成しをする立場の人でした。彼らが職務を果たす時には、血で汚れている人と接してはいけないという決まりがありました。けが人を介抱した場合には、別の人に職務を代わってもらうということが考えられます。大切なことは同胞の助けであり、命の救いであるはずです。神に敵対している私たちにも救いの手を差し伸べてくれるのは誰でしょうか。この善いサマリア人であるイエスさましかおられません。