いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
「客観的」という言葉があります。例えば、数値データです。統計の数字は、それ自体としては、余計な手が加えられていなければ、事実ありのままを示している、と言えそうです。
しかし、少し前のことですが、ある人とコロナウイルス感染のことを話していて、どうにもしっくりこないことがありました。その話は、一日あたりの死者数をどのように解釈するのか、ということでした。もちろん、様々な意見があってよいのだと思います。しかし明らかに、私が考える解釈とその人が考える解釈は違っていました。同じ出来事を示す一つの数字について話し合っていても、自分の立っている立場、考え方によって、まったく異なる結論が引き出されます。
ところで聖書には、「目の中にある丸太に気が付かない」という有名な言葉があります(マタイ7:3参照)。これは、そもそも私たちの心の中に、最初から偏りがあるという意味です。そこで聖書は、まず自分自身の偏りを取り除くことを勧めています。人はだれであれ、自分については甘く見積もり、他人に対しては厳しく欠点を指摘するものだ、というわがままさに気づき、これを克服するという教えです。
けれども、私たちは自分で自分の欠点を直すことができません。そうであるからこそ、聖書には、自分のわがままさを捨てられるように神に祈ればよい、「求めなさい、そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)という、これもまた有名な言葉があります。