いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
私たちは普段、自分が死ぬことをあまり本気で考えていません。しかし聖書が教えているのは、一言でいえば、今、この時から、死の先にあるものを考えることです。あるいは、ただ考えるのではなく、死の先を生き始めることです。
たとえば、もし、明日死ぬことになれば、私たちが自分の人生のためにコツコツと積み上げてきたすべてを後に残すことになります。良い仕事に就くために小さなころから積み重ねてきた勉強、数多くの試験にパスしたこと、あるいは、努力の甲斐があってよい仕事を得たこと、学生時代に出会った恋人と無事に結婚できたこと、望んで与えられた子どものこれからの将来、そんなあれやこれやは死の先に持っていくことはできません。一切は自分の手からすり抜けていってしまいます。
そうであるからこそ、私たちは死を恐れます。死を恐れて、それを忘れようとして、普段は無事に忘れてしまっているのです。けれども、遅かれ早かれ確実に、死は私たちそれぞれに訪れます。その時に、目に見えるもの、地上のものだけをあてにしている人は、絶望するしかありません。しかしそこで、私たちが死の先に届くものを持っていたとしたらどうでしょうか。死の先にあるものを見つめている人は、その先にある希望を見つけ出すことができます。
イエスは言われました。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)