いかがお過ごしでしょうか。せんげん台教会牧師の川栄智章です。
キリスト教の信者は、キリストを信じる信仰によって神様から罪赦され、義と宣告されます。この「義と宣告された」という言葉は法廷用語でありまして、裁判官から発令される言葉ですけれども、そのように宣告された理由は、贖い金が完全に支払われたからです。
しかし、その贖い金は信者が自ら支払ったのではなく、第三者であるイエス・キリストによって支払われました。従って、信者自身においては保釈される前と特に変化はなく、相変わらず罪人の習性が残っていて、道徳的に義人になったわけではありません。信者はこの世において、義人とされたことを経験することも、知ることもできない、ということです。
従って、信者は祈りの中で「神よ、私は全くの罪人です。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。どうか私を憐れんでください。」と告白するのです。このように、信者は内的に見るなら、常に罪人であり、咎(とが)のある者でありますが、外的には、神様が御覧になられるときには、常に義とされた者であり、無罪の者たちなのです。
聖書に「義人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4・口語訳)と書かれてありますように、信者は神の約束を信じながら、義とされることを要求し、希望し、期待し、喜んで確信する人生を送ります。