いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
復活したイエスが弟子たちに現れた、ということが福音書に描かれています。しかし不思議なことに、弟子たちは、復活したイエスと出会っても、それがだれなのかわからなかった、ともあります(ヨハネ21:4参照)。理由はわかりませんが、目の前にいる人が何年も親しく指導を受けたイエスその人だ、と見分けることができなかったのです。
しかし、このような弟子たちに向かって、イエスは「子たちよ、何か食べる物があるか」と呼びかけたと聖書は続きます。これに対して弟子たちは、きっぱりと「ありません」と答えました。しかしイエスはなぜ、この出会いの時にあえて「食べ物はあるか」と尋ねたのでしょうか。
ひょっとすると、この問いは、弟子たちがどのような者なのかをはっきりとさせるための問いだったのではないでしょうか。弟子たちは「持っていない」ものです。「あるか」といわれたら「ない」と答えるしかないものです。
しかしイエスは、その持ってない人たちにあえて魚を取るよう、命令をされます。そしてその通りにしたときに、網は魚でいっぱいになります。このようにして弟子たちは持っている人にされます。その同じ時、一人の弟子が「主だ」と叫んだと聖書は続きます。イエスによって豊かにされたものは、イエスの子であることが分かり、また同時にイエスが見えるものにされるのです。