いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
2週間前はイースターでした。このところ商業施設などでもイースター関連のイベントがあったりします。春の行事として楽しまれた方もあったかもしれません。
しかし、イースターは本来であればイエスの復活を祝うキリスト教最大の祝日です。そしてイエスの復活という出来事は、ただそれだけでは、たとえそれが事実であったとしても、あまり意味がないのかもしれません。問題は、イエスは復活した、ということが「ああ、これは俺と関係ある、私と関係ある」というように感じられるかです。
それはイエスの弟子たちにとっても全く同じことでした。イエスの復活という出来事を自分の目で確かめた弟子たちは、なぜかその後で、故郷に帰ってしまいます。そして何ごともなかったかのように、自分の仕事を始めます。彼らは湖で魚を捕る漁師でした。それはまるで「もう祭りは終わり、今日から仕事、仕事」とでもいうような態度です。
しかし、その日の漁はさんざんであったと聖書には書いてあります(ヨハネ21:3参照)。このことは、たまたまそうなったのではないのかもしれません。なぜなら、その後弟子たちは、もう一度イエスと出会って、漁をするようにと言われ、その通りにすると、今度は打って変わって大漁になった、と続いているからです。
これは、イエスと出会うことで私たち人間のあり方が根本から変わるという話です。このようにして、復活したイエスは、私たちの日常の中に来てくれます。ただ来るだけではなく、日常を変えてしまいます。そのようにしてイエスは私たちと共にいる方になるのです。