聖書を開こう 2019年12月26日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  追い求めるべきもの(1テモテ6:11-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何に心を用いるか…これは、生きていくうえでとても大切なことです。寝ている間は別として、一日の中で、あるいはひと月の中で、一番心が向かっているのはいったいどんなことでしょう。こう考えてみると、その人その人が大切にしているものが見えてきます。

 もちろん、何に心を一番使っているかなど、自分では気がつかないかもしれません。ある場合には、今日やるべきことで心がいっぱいかもしれません。あるいは、何となく将来のことをいつも考えているかもしれません。それは将来の夢であったり、老後の生活のことであったり、人が置かれたライフステージの中で、「将来」という言葉の中身も変わってきます。

 いずれにしても、心の向かう先が、自分自身のことだけに集中してしまうとすれば、それはとても視野が狭くなってしまいます。心が向かう先をいつも意識していること、そのことについて、今日の聖書個所から学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 6章11節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

 きょうの個所は、前回取り上げた個所とセットで読まなければ、意味が通じません。「これらのことを避けなさい」と命じられている「これらのこと」とは、言うまでもなく、直前の個所で言われている事柄です。

 そこでは、特に金銭を追い求めることがもたらす災いについて述べられていました。もちろん、金銭そのものが悪なのではなく、神に代えて金銭に依存し、依存するための金銭を得ようと、分別を失ってしまうことが問題でした。信仰さえも利得の道だと思うほどの無分別が非難されていました。

 そのような生き方を避けるようにと命じるとともに、信仰者として何を追い求めるべきなのか、そのことが今日の個所では明確に述べられています。

 「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」

 これら六つの言葉は、聖書の中でそれぞれに深い意味を持った言葉です。しかし、聖書の中で使われる頻度はそれぞれ違っています。ですから、皆同じ重さを持った言葉というわけではありません。特にテモテの手紙一に限ってみてみると、これらの単語の中には、ここで初めて使われているものもあります。たとえば、「正義」「忍耐」「柔和」と訳されている三つの単語は、この書簡の中では、ここでしか使われていません。その中でも、「柔和」と訳されている単語は、新約聖書全体を見てもここにしか登場しない珍しい単語です。もちろん、同類の意味を持つ単語は登場していますから、全く新しい概念が登場しているわけではありません。けれども、この書簡の中でほかに一度も取り上げられない単語を用いて、それを追い求めるようにと勧めているのは、少し不思議な気がいたします。

 しかし、言い換えれば、ここで追い求めるようにと勧められている事柄は、信仰者にとってほとんど説明不要な普遍的な事柄であると言えるかもしれません。

 神のみ前に生きる者として、絶えず自分を吟味する鏡を持っていることはとても大切なことです。自分が何を追い求めて生きるべきなのか、そのことを漠然としか考えないのであれば、たちどころに他のものがそれにとって代わってしまう危険があるからです。

 新約聖書には、こうした追い求めるべき徳目を記したリストが他にもあります。たとえばフィリピの信徒への手紙4章8節が有名です。そういうリストを持っていることは、何よりもクリスチャンとしての生き方の目標を示すと共に、今、自分がどういう状態なのかを知るためのチェックリストともなるからです。

 こうした追い求めるべき事柄をリストアップした後で、パウロはテモテに、信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れるようにと命じます。

 ここだけを切り取って読めば、テモテの救いは結局テモテ自身の努力にかかっているように読めてしまいます。もし、ここに挙げられる徳目のリストの目的をそのように理解してしまうと、福音の本質を見失ってしまいます。パウロは救いが人間の努力にかかっているとは少しも考えてはいません。

 この手紙の冒頭でも述べているとおり、パウロが救いにあずかるようにとされたのは、ただ神の憐みによるものでした。救いの恵みにあずかることができるのは、決して、本人の努力のたまものではありません。神の憐みと恵みがいつも人の救いに先行しています。そうパウロは信じています。

 救われるために信仰の戦いを立派に戦い抜くのではなく、神が命を得るようにと召してくださっているからこそ、その召しに応えることができるのです。

 神は全く無計画に人を救いへと召し出されたのではありません。計画されたことが実現するようにと、すべてを整えたうえで招いてくださいます、神が命を得させようとその人を召し出すとき、神は確実にその人を救いへと導いてくださる力のあるお方です。そうであるからこそ、信仰の戦いを人は立派に戦い抜くことができるのです。

 ところで。パウロのこの命令の言葉には、ゴールがあります。それは、イエス・キリストが再び来てくださる時までのことです。主イエスが再び来てくださる時とは、世の終わりの救いの完成の時です。もちろん、自分が生きているうちに終末の時が来るかどうかはわかりません。大切なことは、そのゴールの時をいつも意識し、その時を目指して地上での生涯を歩むことです。

 パウロはこの部分を締めくくるにあたって、まことの主権者である神にすべての栄光を帰しています。この地上では、一時、違った教えに教会がさらされ、翻弄されることがあるかもしれません。しかし、それによって神の救いの計画が無になってしまうことはありません。まことの主権者である神を見上げて仰ぐこの言葉には、そういう確信が込められています。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ11:36)。

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